突然の訃報。
夏のバカンスのただ中に、突然、“ジェーン・バーキン逝去”の悲報が舞い込んだ。7月16日、リュクサンブール公園にほど近いアサス通りの自宅で、すでに亡くなってる彼女を介護人が発見したという。76歳だった。近年は白血病や脳卒中などの病気や、コンサートのキャンセルなどのニュースは度々聞こえてきたが、またあの笑顔で戻ってくると誰もが信じていただろう。
インターネット上では驚きと悲しみの声であふれた。芸術関係者や仏政府もすぐに哀悼の意を表した。こういう時にたいてい味わい深い発言をするのがブリジッド・バルドー。「こんなにも可愛らしく、瑞々しく、子供の声を持った自然な人は、亡くなる権利はありません」と、彼女らしい追悼の言葉を発表。
また、コメディ映画『おかしなおかしな高校教師 La moutarde me monte au nez』(1974年)などで共演したピエール・リシャールは、「ジェーン、あまりに面白く、賢く、壊れやすく、寛大で、あまりに全てだ!私の心の一部は、彼女と共に立ち去った」と、ツイッター上で心情を吐露している。
職業はジェーン・バーキンだった。
英国出身のジェーン・バーキンは歌手で俳優、モデルでもあったが、フレンチポップ・カルチャーのアイコン的存在で、「職業はジェーン・バーキン」だったと言ってもよいだろう。3人の有名芸術家、音楽家のジョン・バリー(バーキンが17歳の時に結婚)、セルジュ・ゲーンズブール、映画監督のジャック・ドワイヨンの間にそれぞれ女子をもうけている。とりわけ、映画『スローガン』(1968年)の撮影で出会ったセルジュ・ゲーンズブールとは、公私に渡るパートナー関係を築き、互いにインスパイアを与え合い、歌や映画など様々な作品に昇華した。
1969年に発表されたゲーンズブールとのデュエット曲「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は、露骨な性的表現でスキャンダルを巻き起こしたものの大ヒット。1976年、ゲーンズブールはこの曲をモチーフとして同名の映画を自ら監督し、両性具有的なバーキンの魅力を引き出している。
バーキンはほかにも時代を彩る異色作に数多く出演。ジャック・ドレーの『太陽が知っている La piscine』(1969年)、セザール賞で主演女優賞を授与されたジャック・ドワイヨンの『ラ・ピラート La pirate』(1984年)、ジャン=リュック・ゴダールの『右側に気をつけろ Soigne ta droite』(1987年)、アニエス・ヴァルダ『アニエスv.によるジェーンb. Jane B. par Agnès V.』(1988年)、ベルトラン・タヴェルニエの『ダディ・ノスタルジー Daddy Nostalgie』(1990年)、ジャック・リヴェットの『美しき諍い女 La Belle Noiseuse』(1991年)などなど。
要求が多いうるさ型監督との仕事が多い気がするが、鬼才系の監督たちは皆、バーキンの優しさや寛大さ、リスクを恐れぬ芸術的冒険心に頼っていたことだろう。その心意気は、次女である俳優のシャルロット・ゲーンズブールにもしっかりと受け継がれている。
親日家で知られるバーキンは、日本との関係も深かった。東日本大震災の翌月には、いち早く復興支援のために駆けつけ、チャリティイベントを開くなどして被災者を励ましている。2014年に写真家だった長女のケイト・バリーを転落死(死亡の背景は不明)で亡くしてからは鬱病に見舞われていたが、それでも表舞台への復帰を果たし続け、笑顔を振りまいていた。最後に公の場に登場したのは、娘シャルロットと孫アリスとともに参加した2023年2月のセザール賞の授賞式だった。
シャルロット・ゲーンズブールは2018年からそんな母親の撮影を初め、途中で中断も挟みつつも、約4年をかけ、娘にしか撮れないような親密なドキュメンタリー映画『Jane par Charlotte ジェーンとシャルロット』(2021年)を完成させている。https://www.reallylikefilms.com/janeandcharlotte
本作は一昨年のカンヌ映画祭で上映され好評を博し、日本ではちょうど8月4日から公開予定。コンサートに合わせ来日したバーキンの日本での様子から幕開ける作品だ。(瑞)
※すでにテレビやラジオで追悼番組は数多い。なかでもFrance
TVでは2022年に制作されたジェーン・バーキンについてのドキュメンタリー『Jane Birkin… et
nous』(監督はGautier & Leduc)が2024年8月16日まで鑑賞できるのは嬉しい。バーキン本人が人生と仕事を振り返っている。
https://www.france.tv/documentaires/5110017-jane-birkin-et-nous.html