パリ郊外のコンフラン・サント・オノリーヌの中学校で、教師が授業でイスラム教の預言者の風刺画を見せたことがきっかけで首を切断された。教育現場で表現の自由を教えることの難しさが浮き彫りになった。
検察によると、被害者のサミュエル・パティさんは、表現の自由についての授業で生徒同士で討論をさせた際に、風刺週刊誌シャルリー・エブドに掲載された、裸のムハンマドが跪(ひざまず)いて肛門を見せる姿などの風刺画2点を生徒に見せた。
数日後、この中学の生徒の父親1人が、教師が「わいせつ画像を見せた」として警察に被害届を提出。パティさんも父親に対し名誉棄損で被害届を出した。警察の聴取でパティさんは、風刺画を見せる前に生徒に予告し「一部生徒はショックを受ける可能性があるので、目をそらすよう」指示したと説明していた。授業から10日後、この父親が一部始終を話すビデオを見た男が事件を起こした。
被害者の追悼デモに参加した教員の多くは、表現の自由を教え続けるとし、授業で預言者の風刺画を見せることについても肯定した。ブランケール教育相は、国は教師の味方と強調し、「教師には風刺画を見せる権利が大いにある」とした。
一方で、表現の自由やライシテ(非宗教性)についての授業を行うことの難しさを、匿名でメディアに語る教員も多い。こうしたテーマは年々複雑になり、生徒の疑問に教師が答えられないことも多いという。ある教員はリベラシオン紙に、不適切な発言をすることを恐れ、難しいテーマは避けると語った。ル・フィガロ紙によると、教員養成課程で、これらの問題に関する国の指導指針が不十分な上、倫理の授業の研修は必須ではないため大半の教員が受けず、授業は教師の裁量によるところが大きい。批判を受け教育相は、万聖節の休み明けの11月、生徒に今回の事件をどう説明すべきか教員向けの指針を発表するとしている。
テロを防止できなかった治安上の問題の裏に、学校でのライシテと生徒の信仰の尊重は今日両立できるのか、預言者の絵を見せる指導法は正しいのかなど重い問題が突き付けられた事件だ。だがシャルリー・エブド事件の時と同様、殺人への憎しみが叫ばれるだけで、事件のきっかけについての自由で深い議論はないまま、数世紀前に明文化された「表現の自由」を神聖化する風潮が広がっている(重)。