長年、世界の映画祭レポートを、パリから発信し続けた今泉幸子さん(85歳)。戦前、3歳の時から無声映画に親しむ。早稲田大学で演劇専攻、TBS演出部AD。学研映画局に入社し、社会教育映画、PR映画の企画・製作を経てフリージャーナリストに。冷戦期のソ連・東欧に渡り、写真入りのルポルタージュを毎日グラフに掲載。1977年パリに移住。
今、私が一番懸念していることは、若者たちの未来です。嫌々勉強、嫌々働くのではなく、恋し愛し、高らかに歌い踊って心からしたいことをして欲しいのです。こんな生き方もあるのだと知っていただければ幸いです。
国民学校5年生の時に終戦、東京は見渡す限り焼け野原。全焼した母校にはペンペン草が。「桜を見る会」の名簿ではないけれど、 教科書のあちこちに黒塗り。先生はもはや信用出来ない。その時国語の女教師が、谷崎潤一郎文語訳和綴じの源氏物語24帳を、1冊ずつ私に貸して下さった。この見識!お腹はペコペコでも、透かしの挿し絵入り光源氏の恋物語が私を夢の世界へ。ドストエフスキー曰く「美は世界を救う」。
1970年大阪万博を取材、記者クラブに女性は私一人。記者会見に行くとあちこちから招待状が。1970年10月からモスクワ経由で東欧、北欧、西欧、 中東、アフリカへ。エチオピアでは、病んだマラソンの英雄アベベにインタビュー。その手は力なく胸痛む。
1975年、モスクワ映画祭に出席。著書『映画言語』で日本のヌーヴェルヴァーグ監督たちを虜にした仏映画批評家マルセル・マルタンに出会う。彼も私も一目惚れ。その年私は米コロンビア大学ジャーナリズムスクールに招待留学。社会主義国と資本主義国の違いは?学長宛に書いた手紙。「私は40歳。80歳まで生きるとしたら人生半ば、貴校で学びたい」と。まさか!返事が来たのです。”貴殿をビジティングジャーナリストして招待します”。75-76年とニューヨーク滞在。勉強しましたよ。大統領選挙の年で学校からニューハンプシャー予備選挙の取材に。民主党ジミー・カーターの勝利。ABCテレビ報道部で研修。1976年NYから初のカンヌ入り、翌年マルタンと結婚、二人手を携えて、カンヌ、ベネチア、ベルリン等々、映画祭のはしごが始まったのです。