Q:色々お聞きしたいことはありますが、まずはご出身から。
後藤:出身は大分県大分市で、1976年生まれです。
Q:料理の道へ進むきっかけは?
後藤:きっかけは母です。うちは親が共働きで、母は仕事から帰ってから料理をし始める。その姿を自分は後ろでよく見ていたら「手伝え」と言われて、そのうちに信用されある日「今日は6時過ぎになるから人参とジャガイモを」と言われてからどんどん料理が面白くなってきた。
Q:いくつぐらいの時ですか?
後藤:小学校5-6年。そういう風に家で料理をしていて、デザートでも作ってみようかな、とある日思ったらテレビで「ティラミス」の作り方を紹介していた。中学の時代かな、その頃はまだティラミスは流行りじゃなかったと思うんですが、ちょうどテレビでやっていた。「あれ、なんだこれ」と思って、マスカルポーネをあちこちで探したけれど見つからない。
Q:おそらくまだイタリアンがすごく流行る前ですね。で結局?
後藤:マスカルポーネはなくてクリームチーズだったような気がしますが、あちこち探して見つけるんです。洋菓子屋まで行って分けてもらって作って、「ティラミスができた!」と友達に食べさせたらみんな喜んだ。それがきっかけですね。パティスリーからだんだん始めて
Q:最初はお菓子だった?
後藤:いや、料理が好きだというベースがあって、パティスリーがその頃は面白くて、いろいろなケーキを作っては友達や塾の先生に試食してもらう。
Q:ということは、余暇にお菓子を作っていた?
後藤:そうです、よく作っていました。作っていた、というか作ること、作り方を研究したり、材料をきちんと計って作っていくということが好きでした。
Q:でも昔は情報が今ほど簡単には手に入らなかったとすれば、どこで作り方を仕入れていたんですか?
後藤:あれ、どうしていたんだろう?たしかにインターネットがなかった時代ですよね?
Q:テレビとかラジオ?
後藤:自分で録画をしていたと思うんです。
Q:「きょうの料理」のような番組を?
後藤:「3分クッキング」じゃないですけれど、そういう番組でした。料理が楽しくなって、親が帰宅する前に煮込みを作ったり。
Q:作っていたのは普段の家庭料理?
後藤:そうです。プロっぽいものではなくて、いつも家で食べているような料理でした。それで高校進学の時に料理を選ぼうと思ったんです。
Q:高校から?
後藤:大分に調理科がある高校が一つだけあって、そこへ絶対に行きたいと親に話をした。
Q:親御さんは何と?
後藤:うちの親は「好きなことをすればいい」というタイプなので何も。
Q:いいですねー。
後藤:一年目はとりあえず 包丁研ぎから切り方、焼き方など全てを。そして二年に上がって実習をしましたが、中華、和食、洋食と混ざっていた。そして三年になってからようやく和食、洋食、中華、と分かれます。
Q:洋食の基本はフレンチ?
後藤:どうだったかな?ホテルの洋食部門の料理長が講師として来ていましたけれど、フレンチというよりもあちこちの料理が混ざったインターナショナルという感じでした。
Q:そのあとは?
後藤:高校の時にカヌーにかなり没頭していて、カヌーで大学に行かないか?と薦められて
Q:推薦で大学へ?
後藤:そうです。高校の調理科を出るとみんな就職するのが、自分は調理への道をあきらめるというわけじゃなくてちょっと休んで大学でカヌーを続けよう、と。
Q:わー、そうなんですね。
後藤:それで関東、横浜へ出て来ました。関東学院に4年間です。ただ料理は忘れずに、バイトでイタリアン、和食など、経験があった方が良いだろうと思って色々かじりました。それからもっとインターナショナルな東京の店でも働いてみて、卒業前のバイト先のシェフが顔の広い人で、その人が銀座にフレンチがあるからと紹介された店で働くことになりました。
Q:銀座のどこで?
後藤:カーヴ・エスコフィエという店です。
Q:カヌーで将来何かを、とは思わなかった?
後藤:思いましたよ。でも、最後のバイト先の鈴木シェフが「お前カヌーをやってもいつかはできなくなる。 料理人だったらずっと続けられるけれど、カヌーを続けて40過ぎて疲れたらどうする?」と言う。将来のことを考えると確かにそうだな、と思いました。だったら料理を続けていこう、と。
Q:カヌーでプロになるという道もあった?
後藤:ありましたけれど狭い世界ですし、日本ではマイナーなスポーツです。だったらやっぱり自分にとって面白い料理を続けていこう、と銀座のカーヴ・エスコフィエに行きました。そうしたらフランスに行った経験がないのにとても色々なことを知っている、今考えてもすごいシェフに出会って勉強になりました。それでもやっぱり本場を自分で知りたいじゃないですか。ですから2年ほどその店で働いて、本当のフランス料理、フランス人が作るフランス料理を知りたいと思ってバイトで世話になった鈴木シェフに相談したら、シェフの知り合いがヴィッシーにあるJacques Decoretジャック・デコレというシェフを知っていて、紹介してもらうという形でフランスへ来ました。2001年の9月のことです。
Q:ちょうど15年前ですね。
後藤:そうです。あのニューヨークでの事件、9.11の少し前です。それから自分のフランスでの生活が始まりました。
Q:パリではなくつてがあったヴィッシーへ。
後藤:パリにはそこまで行きたいとは思わなかったです。東京ですでに働いていたということもありましたけれど、パリって着いた時にまず「匂い」が自分としては何か
Q:パリの匂い?
後藤:そうです。メトロの印象、匂いが自分にとっては良くなくてダメでした。
Q:料理をしていらっしゃると匂いにはとても敏感ですよね。
後藤:もちろん匂いだけじゃないですけれど、狭い中に大勢の人がいるということが苦手でした。
Q:それは東京でそのことをすでに感じていらっしゃったから?
後藤:まあそれもあるでしょう。
Q:でも大学は横浜でお仕事が東京なら、都会にはすでに慣れていた?
後藤:都会は大好きですが、住むのは田舎がいい。大学も横須賀の横だったんでそれほどの都会ではなかった。そして初めてのフランスでは飛行機を降りて、ギリギリのタイミングで電車に乗ったんですけれど、自分がどこへ行くのかもあまりわかっていないし、右も左もわからない初めての土地です。
Q:ヴィッシーへ行ってどうでしたか?
後藤:良かったです。川もあり、山もあり
Q:温泉もあり
後藤:温泉(笑)!そう、飲む温泉、しょっぱい水ですね。
Q:それでフランスで初めての厨房は?
後藤:まず言葉です。自分は全然喋れなかったので、とりあえず覚えるしかなかった。でも技術は取得していた、銀座でやっていた技術が使えたのですぐにシェフと横並びで、焼き方とかソースなどをやらせてもらいました。それでもやっぱり言葉がわからないのでよく怒られました。
Q:みなさん料理用語はフランス語だっておっしゃいますが違うんですか?
後藤:もちろん数字などはフランス語ですけれど、日本では日本人が使うフランス語じゃないですか、すると全然違うんです。だから初めて聞いた時にはわけがわからなかったです。休みの日はずっと辞書と首っ引きでしたね。今みたいにスマホを叩けないので、辞書で全部引いて覚えていました。ある程度覚えて、使えるまでに最低1年はかかる。本当に話せるようになったのは2-3年経った頃でした。
Q:結局デコレさんのお店にはどのぐらい?
後藤:2年です。
Q:デコレさんの料理というのは?
後藤:とても個性的で、スペイン料理などにも影響されていました。ただスペインに行ったことがないので、人とは変わったことをしたいという気持ちで作っていたのだと思います。
Q:奇天烈な方?
後藤:そうです。だから本当に面白かったです。とはいえたまに「えっ!?」というものあった(笑)。「これってお客さんあまり喜ばないんじゃないかな」というような。
Q:ひらめきのシェフなんですね。
後藤:いつもそうでした。いつも人とは違う、変わったことを考えるという。
Q:するとお店にメニューはなかった?
後藤:いや、ありましたよ。けれどいつも面白い、新鮮味のあることをしていた。「えー、フランス料理でこんなこともできるんだ!?」という感じです。日本でのフランス料理はきちんとソースから何から、Coq au vinとかMagret de Canardとか、フォワグラを使ってRossiniステーキとか、決まったことだけをしていたことを考えれば、ジャック・デコレの料理はそれとは全く違う。焼き具合にしたって、デコレはその当時にすでに低音調理を始めていた。「面白い !」と思って、自分でも勉強しました。彼はもともとArpège(アルページュ=アラン・パサール氏の店)で修行をしたので、そこでいろいろなことを学び、アルページュの後にトロワグロへ行って日本のことなども教わったのだと思います。
Q:ヴィッシーから動こうと思ったきっかけは?
後藤:最後の方ではすごく信頼されていたんですけれど、自分としてはやはり次を見たいじゃないですか。おまけに持っていたスタージュの紙の期限も切れるので「更新して欲しい」と頼んだら「更新は無理だけれど、紙がなくてもいていいから」と言われたので、だったら他のところで仕事を探そうと思いました。2001年あたりは紙がなくても働かせてくれる店はあったので、とりあえず手紙をあちこちに書きました。
Q:誰に書いたんですか?
後藤:とりあえずGault et Millauゴー・ミヨの点数が高いところとミシュランを見ながらです。返事が来たのは数軒だけでしたけれど、ここフォンテーヌブローの横の町Bourron-Marlotte ブーロン=マルロットにある店が「いいよ、雇ってあげる」と言ってくれて面接をしに行きました。
Q:雇ってあげる、ということはサラリーを出すということですよね?
後藤:そうです。面接の時に「自分は紙(労働許可証)を持っていない」と話したら「じゃあとってあげる」とあっさり、初めて会った人間にですよ。その場ですぐに誰かに電話をしてくれて、面接から3ヵ月後ぐらいで紙が取れました。でもジャック・デコレは自分を手放したくないので「夏までは頼む」と言う。2003年の春に紙は取れたけれどその夏までということです。だからとりあえず「次の店のシェフと話をしてください」とデコレに頼みました。電話で交渉をしたようですが、結局次の店のシェフがしびれを切らして「来週来なさい」と言われて、デコレの店を後にしました。
Q:ヴィッシーの時は住み込みで?
後藤:そうです。
Q:次のお店は?
後藤:給料取りになったし、紙も取ってくれたので自分でアパートを、と探したらフォンテーヌブローにみつかった。それが自分とフォンテーヌブローとの初めての出会いです。その店で働いた間はフォンテーヌブローで独り暮らしをしました。休みの日にフォンテーヌブローをぐるぐる回りながら気づいたのは、城があって人もたくさんいるのに、ガストロノミーのレストランがないということでした。もったいないなあ、なぜガストロノミーの店がないのかなと思いました。自分が働いた店はここから車で10分ぐらいの場所にあって、ゴー・ミヨではいい点数を獲っていました。
Q:そのお店はガストロノミーだった?
後藤:そうです。自分はパティシエとして働きたいと志願しました。
Q:パティシエで入ったんですか?
後藤:いえ、シェフ・ド・パルティ(部門長)として入ったんですが、ちょうどバティスリー部門に空きができた。だからパティシエとしてやらせてくださいと。シェフに休暇中はパティスリーの研修にも行きたいと話をしたら、ちょうど同じ町にあったパティスリーに口を聞いてくれて、バカンスの間はそちらで研修をしました。
Q:パティスリー専門のお店で?
後藤:そうです。フォンテーヌブローで有名なFrédéric Casselという店は?とも薦められましたが、結局レストランのある町にとてもクラシックな菓子を作る店があったのでそこへ研修に行って、いい勉強になりました。自分はフランス菓子の基本をもう一度さらいたかったんですね。
Q:子供の時にお菓子を作るのが好きだったことの続き?
後藤:そうですね、だからここではとても楽しかったです。この時代に自分の中でパティスリーのレシピというのをかなり作りました。今の店で出しているパティスリーもそこで学んだことがベースになっていると思います。
Q:ブーロン=マルロットのあとは?
後藤:また色々手紙を書いて、Saint-EmilionサンテミリオンにあるPhilippe Etchebestフィリップ・エッチュベストがシェフだった店へ。
Q:いきなりボルドーの方まで?
後藤:ええ。フィリップ・エチュベストから電話をもらった時には最初「誰?」と思いましたけれど彼だとわかって「わー、来た!」という感じでした。「面接に」と誘われて会ったらOKと言われて、2005年の冬から始めようということに。
Q:会ったことがなく店についてもあまり知らないけれど、ゴー・ミヨーに載っていたからというのが選択の基準だった?
後藤:そうです、やっぱりガイドブックを見て、ミシュランよりもゴー・ミヨの方がコメントしているじゃないですか。そういうコメントを読みながら「ここは面白そうだな」と思って手紙を書いていました。
Q:その選択基準にミシュランの星の数は入りますか?
後藤:多少気にはします。はじめは「三つ星というのはすごい!」と思ったけれども、だんだん自分で仕事をしてくるうちに三つ星の中にも色々あることがわかってくる。そしてジャック・デコレの料理を一度見てしまっていると、もっと面白い料理をしてみたいという気持ちになる。さらに面白いシェフがいるだろう、と思ってしまう。
Q:二つ目の店に変わろうと思った時、気になったシェフというのはエチュベストさん以外には誰がいましたか?
後藤:Pauiillacポイヤックには当時チエリー・マルクスThierry Marxなどがいましたし、山の方も探しました、サヴォワとか。
Q:ミッシェル・ブラスさんとか、オリヴィエ・ローランジェさんなどは?
後藤:もちろん考えて食べにも行きましたけれど、すでに埋まっていたのでなかなか入ることができない。だからゴー・ミヨでいい点をとっている店だったらと思いました。
Restaurant L’Axel
Adresse : 43 rue de France , 77300 FontainebleauTEL : 01.6422.0157.
URL : www.laxel-restaurant.com/fr/
月火終日、水昼休み