モーパッサンは、たった10年の作家生活の間、何かにとりつかれたように机に向かった。残された長編小説は6作、短編小説は実に300作以上にもなる。そして、そのインスピレーションの元は、自らの体験であることが多かった。
初の長編小説となった『女の一生』(1883年)は、作家の生まれ故郷であるノルマンディー地方が舞台。主人公ジャンヌとその夫との関係には、作家の両親の姿が投影されている。
幸せな新婚旅行から帰ったジャンヌを待っていたのは、いかにも単調で冷え冷えした日常だった。夫のジュリヤンは身だしなみを整えることさえ億劫になり、服の染みや伸びた髯もそのまま。欠かさないのは食後のコニャックくらいで、夫婦の会話も途絶えがち。それだけなら、もしかしたらよくある話と流せるかもしれない。でも、食いしん坊な読者がジャンヌに思わず深く同情してしまうのは、夫の吝嗇(りんしょく)ぶりだ。「ジャンヌは、レ・プープルに来て以来ずっと、毎朝パン屋にノルマンディー風の小型のガレットを焼かせていたが、ジュリヤンはその費用を削除して、普通の焼パンを食べるように宣告した(新庄嘉章訳)」。そうやってジャンヌの数少ない楽しみを奪っておきながら、ジュリヤンはその後とんでもない相手と浮気をして、ジャンヌを悲しませる。
作家自身の父も、浮気が絶えない男だった。子どもの頃、家庭内で口論や暴力が絶えなかったことは、『女の一生』のみならず、同じ時期に発表された短編小説『ボーイ、もう一杯!』からも想像される。モーパッサンはショーペンハウアーの哲学から影響を受けていて女性を軽蔑しているという見方があるけれど、『女の一生』の中でいえば、ジャンヌの夫や息子など、男性の登場人物の方がよっぽど情けなく、また愚かだ。(さ)