石田克己さん(52歳)
「僕はリヨンで店をやっていまして」と、パリのとあるレストランのテラスで石田さんに言われたのはずいぶん前、以来気になっていた人だった。フランス料理のきらびやかさ、ヌーヴェル・キュイジーヌの立役者の一人であるシェフ、アラン・シャペルに憧れて、神戸、東京のフレンチで働いた後、1992年に石田さんはシャペルの地元リヨンへやってきた。ところが雇用の問題で、自分が思い描いていた人生のレールから少し外れ、4年間リヨンで和食を作った。はじめはお寿司も見よう見まねで握ったという。ただ、この和食の経験が今の石田さんの料理に柔軟性と厚みを加え、そしてなによりもリヨンから広がった様々な人とのつながり、娘さんが誕生してから「美味しくて安全」だと石田さんが考える食への追求が、彼の今を動かしている。
石田さんがこちらに来て開眼したふたつの液体とは、ナチュラルワインとオリーブオイル。食に関してはかなり保守的なリヨン人たちは、はじめナチュラルワインに抵抗を示し、その状況を変えていくまでに多くの苦労があったという。美味しいオイルに出会った時は、さあこれで何を作ろうか、と思いを巡らせるのが愉しいと語る。1999年から始めた店の名前「料理は好きなものを作っていい」は、好き勝手なことを言ったりしたりするフランス人をうまく表していると石田さんは笑って言うけれど、私は、この店名は石田さんという人をよく表現しているとも感じた。(海)
インタビュー全文:
一度パリのレストランで立ち話をした時に、リヨンでレストランを開いていらっしゃる、という言葉が気になっていました。
石田
それは僕が異色だということでしょうか?
どうでしょう、そのあたりを伺いたくて本日お邪魔しています。
僕は92年にフランスへ来た時、その当時はまだあったAlain Chapelアラン・シャペルという店へ入りたかったんです。シャペルさんが1990年に亡くなる前、1987年頃から神戸のアラン・シャペルで働いていたフランス人フィリップと僕は顔なじみでした。シャペルさんが亡くなった後、リヨンから20kmぐらい離れたMionnayミオネイという村の本店にフィリップが戻ったので、僕としては彼を介してシャペルの店で働きたかった。ただ僕は労働許可証がなかったのですんなりとはいかず、はじめは「いいよ」というニュアンスで返事をもらったにも関わらず僕がフランスへ発つ直前になって「ダメ」という返答が出た。チケットも買ってしまったしどうしよう、と思ってとりあえずこちらに来たのが1992年の9月です。
その時はおいくつでしたか?
29歳です。
アラン・シャペルということは、フランス料理を目指してこちらにいらしたということですよね?
「天皇の料理番」という番組が30年前以上に放送されていた時代には、僕はすでに料理を目指していました。あの時高校生ぐらいでしたが、番組を観ていて「フランス」そして「料理」に対して目覚めるというか、自分が出来るとか出来ない以前に皇室や来賓に料理を出す、という行為に憧れたのがきっかけです。同じ時期に辻静雄さん、玉村豊男さんなどのフランス料理についての本が本屋に並び始めた。そういう本を片っ端から読んで頭でっかちになったわけです。
ご出身はどちらですか?
中学と高校は福島で過ごしましたが、それ以前は親父の仕事の関係で横浜に住んでいました。病に倒れた母の故郷、会津へ引き上げて中学、高校を卒業しました。高校生の時にごく膨らんで、会津は小さな土地ですからフランス料理の「フ」の字もないわけです。だから、とりあえず調理学校へ行こう、と。ただ東京よりは関西を知らなかったので関西の学校へ。在学中に神戸でアルバイトを募集していた。そこからがいろいろなつながりへのきっかけです。
それがシャペルさんのお店?
いや、別の店です。Bistro de Lyonというリヨンに関係していた店でした。そこのシェフもリヨンで働いていた方で、SOFITELホテルでも料理長をされていました。その方のつてでいろんな人がレストランへやってくる。シャペルさんもその中の一人でした。僕がそこで働いていた時に、シャペルさんが来日して料理フェアを開くというイベントがあり、僕はシャペルさんのオーラに魅せられました。1982年でしたか、それがきっかけです。
そのあと何年かして働きに行った東京の店にもフランス人が来ていて、僕はフランスへの思いをさらに募らせていった。フランスへ一番行きたかったのは20歳ぐらいの時でしたが時間とお金のタイミングがなかなか合わず、社会人になって10年ほどした時に「行こう」「絶対行こう」と。
フランスに目覚めてこちらに来る人たちと、最初は同じ思いを持っていました。星付きのレストランで働いてそのあとは…と、自分なりの道筋を頭の中で思い描くわけです。ただ自分の中で「これ違うんじゃない?」という思いはありました。そもそも日本人というのは、生まれた時からパンや肉を食べてはいない。だから日本人の底辺にあるものから料理が始まるとすれば何かが違うぞ、と。その時にリヨンで滞在許可証が取れる、という話があった。
たしかに昔はパリではなく地方ならば取れる可能性が高いと言われていましたね。
1993年の話ですが、フランス料理じゃなくて和食ならば、と言われたので迷いました。このまま闇で働くのか、それとも長く滞在するのかという選択肢でした。僕はもっと長くフランスにいたかったので、その後4年間ほど和食屋で働きました。
だからその時点でもうフランス料理を目指して来ている人たちとは違うわけです。ただその間にあちこちへ研修に行ったり、パン屋で修行をしたりしました。パン屋はシャペル…そういう人たちと出会うことができた。ワインに関しては特にそうです。2010年に亡くなった、Marcel Lapierreマルセル・ラピエールという人はリュックから紹介を受けたのですが、彼との出会いが僕のワインに対する道筋をつくったと感じています。今、日本で言う「自然派ワイン」のさきがけのような人です。別に何を教えてもらったわけではありませんが「いいよ、来ても」と言われ、一緒に飲んでみる。あとは美味しいか不味いか。Morgonモルゴンで行われる7月14日の祭りに毎年行って仲良くなった。ラピエールさんは娘のゴッドファーザーでもあります。彼のおかげでいろいろな出会いが生まれたし、文化にも開眼できた。
調理場でフランスのガストロノミーの文化を学ぶというよりも、フランス全般の文化を学ぶきっかけになったのがワインやパンでした。そこからフランスのほかの食材、チーズ…それからですね、フランスと隣の国に興味を持ち始めたのは。
パリには行きたくなかった?
うーん、それよりも僕としてはリズムです。パリではやっぱり仕事、仕事じゃないですか。それはそれで素晴らしいし、20代と若ければいいですが、僕はすでに20代の後半だったし、僕の中で視点が変わってきたところだった。しかもリヨンに来ていろんな人と知り合いになり始めると、僕の中でのパリはどんどん遠い存在になっていきました。
滞在手段として日本料理を選ばれたとしても、その傍らでフランスのいろいろな人や物に出会う。自分の店を持ちたい、という気持ちはフランスにいらした当初からありましたか?
なかったです。今の店にしても共同経営で始まりましたが、結局裏切られたような状態で共同経営者は去っていきました。僕は借金を抱えてゼロというよりもマイナスから、こ…勉強になりました。料理だけではなくて、社会のこと、税金だったり運営だったり、どうしたらマイナスをゼロまで持っていけるか…など。大変でした。
逃げてしまった人物はフランス人ですか?
そうです。今でもリヨンにいます。
どうして行き違ったんでしょう?
僕が考えていたレストランと彼のレストランがまったく違っていた。彼はここを立ち上げたらすぐに売って、と思っていた。
転売しながら大きくする ?
僕とは全然違う考え方でした。僕には経営術がないから利用してやろうと思っていた、と最後になってわかりました。最初、店を立ち上げる段階では僕には何もわからなかった。
この場所も?
彼が決めました。僕は仕事をしていたので時間がなかった。
その時も日本料理を?
いや、その時にはフランス料理屋で働いていました。リヨンのホテルのいいポストに入れましたが、最初の1ヶ月ぐらいはなかなか慣れることができませんでした。
日本料理からいきなりフランス料理に変わる、ということが?
ええ。あちこちで研修はしていたので勘は戻っていたし、昔はしていたことなので大きな問題というわけではなかったのですが実際に仕事をするとなると…
リヨンはパリとは本当にリズムが違うと思います。都市であるようで都市ではない。それから20年前と今とでは食事についての考え方がかなり変わってきた。今は娯楽だ、車だ、家だ、の後に食がきている。
意外です。リヨンといえば「グルメ」の街という印象を多くの人が持っているし、リヨン人は美味しいものが好きなのだと思っています。
伝統料理を出すBouchon Lyonnaisでは、今みんな似たり寄ったりの料理を出している。どこへ行っても料理が美味い、ということは今ではあり得ない。僕が来た20年前というのはどこでも美味しいものが食べられました。
最初に何が一番美味しいと思いましたか?
リヨン名物のソーセージ、湯がくだけの。ああいうものは本当に美味しいな、と思いました。リヨンの伝統料理は、もともと味がとても濃い。クリームが入ってマスタードが加から食べられ、好まれてきたという歴史があります。ただ最近はやはり名物である臓物料理などを好む人が減っているので、出す店も少なくなっています。伝統的な臓物料理は準備に時間がかかりますが、ちゃんと作れば美味しいです。
ところで石田さんにとって、料理とはなんですか?
それはすごい問題ですね…
仕事以上、もちろん仕事ではあるけれど…いろいろなことに関わってくるもの。日本にいた時は和食や中国料理などいろいろありましたけれど、僕はフランス料理しか見ていませんでした。 和食に関しては、精神性など難しいことがありすぎると思っていたので入りづらかった。20歳ぐらいの自分に何がわかるのか、と考えていた。
フランス料理は、そういう意味では難しくはなかった?
いや、そんなことはないです。自分なりに歴史の本などを紐解いて学びました。
でも、もともと自分の文化ではないから入りやすかった?
憧れです。フランス料理というひとつの憧れがあって、キラキラしたものがあった。どちらかといえば和食は陰影の世界で、フランス料理とは対照的だった。僕の田舎、会津は雪も降るし、どこか暗い。だからきらびやかなものに対する憧れはありました。
今は、料理に対してストイックにならなければならない、子供が生まれてからは安全性を考えるようになりました。
お嬢さんは今いくつですか?
13歳です。子供ができた2002年に、食の安全性について考えはじめました。そこでやはり有機栽培などに目を向け始める。日本にいた時にはあまりそんなことは考えていなかったし、普通に食べているもの中にどれほど危ないものがあるかということなど気にもとめていませんでした。子供ができた時に、食べるものは僕たち親が探して大丈夫かどうかを確認してからあげなければならない、そしてこのことは料理にもつながっているのだ、と気づく。よくみんなが言う「いい食材」というのは何か?安全で、美味しいものを提供しなければならない。この考えはワインにもつながります。
ナチュラルワインへの傾倒はお嬢さんの誕生前からですよね?
そうです。でも、ぶどうをワインにする過程と僕ら料理人が料理を作る過程とは、いろいろなところで接点があります。
僕はヨーロッパに来て二つの液体に出会いました。ひとつがワインで、もうひとつはオリーヴオイルです。この二つは僕にとってとても衝撃的でした。日本だとワインは「どこの」ワインで終わるじゃないですか。こちらは違う。どこで「誰が」「どんな考えで」つくっているか。その作り手の哲学というのが一番大切なのだと気付きました。
ところが面白いことに、リヨンの人はワインに関しては結構保守的なんです。
赤はボージョレ、白はヴィオニエとか?
いや、そうじゃなくてボージョレにしても、コート・デュ・ローヌにしても名の通った大手のワインがよいと思っている。だからあまりナチュラルとか有機にこだわる人がいない。実は、僕がリヨンで最初にナチュラルワインを店に置いたのです。最初は誰も見向きもしなかった。ワインリストを見て「何これ?」と、僕にはワインなんかわからないだろう、とフランス人に上からの目線で言われる。一度コート・デュ・ローヌを飲んだお客さんが「 C’est dégueulass !! これ(吐き気をもよおすほど)ひどい味!!」と言ったことがあります。そのお客さんには「ムッシュー、そんなことをおっしゃらないでください。僕が美味しいと思って選んでいるんです。」と話をしました。僕が生産者を選んで、直接仕入れている。嫌いだと言うのは構わないけれども人が丁寧に作ったものに対してdégueulassという言葉は使わないで欲しい、と。こういうことは何度もありました。結局最後には、お客さんは理解してくれる。ナチュラルワインだって全てが美味しいわけじゃない。あとはもう好きか嫌いかです。
今後の展望、というかこれから何か始めよう、という計画はありますか?
料理人を目指す人たちの教育、今のフランス料理以前の、哲学のようなものを伝えていきたいと思っています。
石田さんにとって、フランス料理の哲学とは?
Terroir (テロワール、郷土)、フランスからスペインや北欧などに広がっていったフランス独自の料理文化を失ってはならない。「もともとはこうだった」ということが理解できれば、あとは自分の進みたい方向へ行くことができる。
それから料理人を目指すならば、ピンのものを知ってほしい、と思います。バターにしても、チーズ、クリームにしても一番いいもの、ピンはあるわけです。そのピンがわかっていなければ他と味が比べられない。だからこそ、ピンをまず知る。
それは自分で探して学ぶ、ということですか?
いや、僕は学びたい人にそのピンをあげます。
ただご自身は自分の足で探したわけですよね?
そうです。ただ、僕が探している時に誰かがそのピンをくれたこともあった。「わー、まだ上があった」という時もあれば、すでに知っているものより下のものに出会うことものも、そういう出会いがあるからです。もちろん食べるのも大好きですし、美味しいものに当たった時の感動はちょっとやめられないです。
厨房はお一人で?
今は一人ですが、手伝いの人がいる時もあります。
すると若い人たちに伝えたい、ということならばもう少し別な形での展開になる?
そうですね。ここだけではなく日本 でも、ということもあるかもしれません。あとは自分でみつけたいい食材を日本に紹介したい。まだまだフランスにはいいものがあるし、フランスだけではなくてスペイン、イタリアにもよい食材があると発信したい。小規模の作り手はなかなか外国には紹介されません。自分がみつけてそれだけ価値のあるものだったら日本へ送ってもいい、と。
旅行が好きだとおっしゃっていましたけれど、これまでにあちこち?
そうですね。ただ北にはあまり興味がありません。食べ物が…
オリーヴオイルもなければワインもないし
やっぱりイタリアとスペインになってしまいます。最初にオリーヴオイルへのきっかけをつくってくれたのは、スペインのものでした。アンダルシアでNůñez de Prado ニュネズ・デ・プラドというオリーヴオイルを口に含んだ時に「わーすごいな!」と。濃厚というか、イタリアのものとはまったく違う正反対な感じで、そのことにとてもびっくりして「何だろう?」と。自分で使い始めてから、どうやってオリーヴオイルは作られるのかということを見たくてアンダルシアまで行きました。感動しました。もう一度行ってみたいです。友達が買ってきてくれるオリーヴオイルにもいいものがある。面白い発見です。そしてオリーヴオイルから何を作るか?を考えるのももうひとつの愉しみです。
リヨンの周りで、生産者さんたちとのつきあいはありますか?
たくさんあります。仕入れは直接行って話をします。あとは生産者さんたちからもらういろいろな情報をつてに仕入れています。ブレス鶏は直接行ったり配達してもらったり。最近ですと子羊は自分で行って仕入れるとか。
ピレネーまで?
いや、そこまで遠くではなくサヴォワ地方です。こういうことは苦にならないですね。いいレストランについての定義、こうじゃなきゃいけない、ということはおそらくないので、僕の店の名前通りに(店名 En mets fais ce qu’il te plaî=料理は好きなものを作っていい、はフランス語で春先の気候を表す格言 “En Avril, ne te découvre pas d’un fil. En Mai, fais ce qu’il te plaît” 「4月は薄着をするな、 5月には好きなようにしていい」との言葉遊び)自分が好きなもので人を喜ばせることを心がけています。
レストランの名前は誰が?
前の共同経営者がつけました。一番フランス人を表している言葉だと今は思っています。
好き勝手に…
そう、フランス人そのものです。
フランスで驚いたこと、フランスで一番感動した料理というのは何でしたか?
牛肉自体が日本の和牛などとはまったく違うわけです。僕は最初にアラン・シャペルの店で食事をした時、仔牛肉を食べた。その時には「これは何だ?」とびっくりしました。日本ではまだ仔牛肉が珍しくて、僕が東京で仕事をした時には仔牛肉はありましたが、こちらのものとはタイプが違っていた。 …と素直に思いました。あとは内臓を使った料理はやっぱり美味いと思いました。内臓で一番感動したのは、仔牛のレバーです。あれを食べた時には「何だ、これ!?」と。日本では焼いても火を入れても食感は残すじゃないですか、コリコリと。フランスのもののようにネトっとした感じも臭みもない。
でもフランスでは結局酢などで〆るというか、味をくくりますよね?あれは匂いとの関係ですか?
匂いではなく、お酢をかけたほうが食べやすいからです、きっと。
でも日本は灰汁なり、食材にそもそも備わっているものを消す、という料理が多い。もちろん灰汁を抜かなければいけない食材もあります。でも灰汁や食材自身が持つ苦味など汁の味で勝負する。あとは日本料理と油の関係。煮る、焼く、蒸す、の中には油が演ずる役割がない。揚げる行為はまた別の話です。
こうしていろいろな土地を訪れながら、肉の脂ということで考えれば土地が違えばこれほど違うのか、とも実感しました。イベリコ豚のあの脂は、へぇーこんなに!という感じ。和牛、神戸牛というのも融点の問題です。個人が口に含んだ時にあの脂がいかにさらっと、あっさりと感じられるかです。フランスにも有名豚というのはいます。うちが普段使っているのはオーヴェルニュの豚ですが、時々ガスコン、トゥールーズあたりの豚が入ると、その脂はワンランク上です。ピレネー地方のビゴール豚も同じ種ですが脂ののり方が違う。あとはバスク地方の豚、体格がよくとても大きいのが、食べてみるとまた繊細で美味い。いろいろな種類の豚がいるなぁ…と実感しました。
ヨーロッパの中で豚の文化は育まれてきたと感じます。
豚の加工肉は賢い保存法。
しかも美味しい。無駄なく美味しく保存する。面白いのは、スペインやイタリアにもソーセージやサラミはありますが、僕にとってはこの二つの国のものは美味しくなく、フラはバイヨンヌBayonne(スペイン国境脇、バスク地方)のものは別としても、生ハムはそれほど美味くない。代わりにイタリアやスペインの生ハムはとても美味しい。面白いなと思います。職人の技、というか。スペインのチョリゾだって美味しいのに、ソーセージ(サラミ)においてはやはりフランスのものがダントツ美味しい。
最近はあまり行けてはいませんけれど、豚を解体して加工する作業にも参加してきました。
楽しいらしいですね。
いやー、もう。大変ですが、リヨンから離れて地方へ行くとまた作るものが違います。リヨンで「こう」と思われているものが、同じ名前でもリヨンから少し離れて地方に行くだけで違うものになっていたりする。Gratonグラトンという豚の皮、リヨンでは揚げてつまみにしますが、これがリヨンを少し離れるとパテのような形になる。とても美味しいです。そういう意味で本当に、自分で足を運ばなければわからないことというのはたくさんあります。
ご自分で何かを生産しようと思ったことはありませんでしたか?
僕が絶対言えることは、料理人がパンを作るのとパン屋がパンを作るのではまったく違うものになる。
それぞれの専門がある、と?
自分で楽しみながら作るのと、売りに出すということは違うと思います。テリーヌなど僕が調理できる場合は別ですが、ソーセージやサラミなどは専門の人のほうが絶対美味しりも自分がみつけた美味しいものを調理して紹介したほうが、自分にもプラスになるし、お客さんにとっても「これ何?」という新しい発見になる。それはすべてに通ずることです。
フランス料理にはやはりフランスの食材が必要なのでしょうか?
もちろんそうです。
リヨンでは初めての日本人オーナーシェフですよね?
そうです。僕がこの店を始めた1999年には、働いている日本人はいましたが、オーナーシェフはほとんどいなかった。
その時に人と同じことをして「あー、やっぱり」と思われるのが嫌だったので、日本の食材は使わなかった。僕が師匠だと思っている人たちも絶対使わなかった。味噌、醤油、料理への敬意の払い方です。もちろん人それぞれの解釈でいいと思っていますが、僕はみんなと同じ土俵に立ちたかった。僕は日本人だから日本の食材だって使いこなせる、というのは卑怯じゃないかと思った。今はフランス人だって普通に使っていますけれどね。
今も日本の食材は使っていない?
使っていません。何も変わっていない。
面白いのは、日本の魚はあまりフランス料理には合わないということです。フランスには、火を入れて美味しい魚というのが結構あります。僕はフランス人が好む「しっとり」ちらのひらめは調理するとたしかに柔らかくなってしまう。日本のひらめは火を入れると乾いた感じ、というか硬くなる。どちらかというと身が締まり過ぎる。
ここをオープンした時、僕が個人的に好きなタコやイカを結構出していました。食べる前に「えー、ゴムみたいじゃない」という反応をお客さんのほとんどはする。ところが食僕は、タコは柔らかく調理する、桜煮が好きなんです。ゆっくり煮て、一度冷やして固めてから焼きます。そうするとまったく違う食感になり、それを食べたお客さんは「わー!」と喜んでくれる。すると僕としては「やったな!」と。そういうことがなかなか愉しいです。
私も覚えていますが、昔はフランス人の中にも知らない食に対する抵抗というか偏見がかなりありましたよね。
まあ、今は寿司屋なんてどこにもありますけれど、昔は寿司には誰も見向きもしませんでしたね。「生の魚を食べるの!?」という感じで。
僕は和食をしてよかったな、と思っています。フランス料理との接点も生まれました。和食に限っては、はじめはまったく我流です。寿司も握ったことがなかったのでビデオで見て研究しました。さっきのタコなどは和食の応用というか、「これだったらフランス人の好む食感になる」と思って作ってみた。
そしてフランスに来られて、あちこちを食べ歩いて20年以上が経つわけですが、 料理はどのように変遷してきたと思われますか?
大筋では変わったと思います。ただ、今は料理がみんな似通っていて面白くない。僕らが目指していた時代にはピエール・ガニエールやアラン・シャペルにしても、個性がありて、食べてすぐに「その人の料理」だとわかった。今は誰でも同じ料理、盛り方をする。たくさんのパーツを組み立てて行く料理になっていると思います。煮たり焼いたりという行程の少ない、貼り付ける料理が主流というか。
素材を大切にする、とみなさんおっしゃいますがそのことについては?
どうでしょう。いろいろな食材が盛り付けられて全部を一緒に食べた時、何を食べているのかを誰もわかっていない状態かもしれない。
僕の料理がすごいとはちっとも思っていません。ただこの食材が美味しい、こうしたら美味しい、ということを念頭にいつも作っています。
今は、よりジェネラルに、ひとつの店の料理全体を評価することが基準になっているのを残念に思います。そのことをジャーナリストたちが報道することにも疑問を感じています。料理にもファッションと同じく流行、サイクルがあるので、もっと自然、原始的な料理が戻ってくるかもしれない、と期待しています。
料理というのは作り手が残したい印象とインパクトだと思うんです。
すると料理にはやっぱりシェフの個性が出る?
もちろんです。同じ料理も、作り手が違うと同じものはできません。一品の凄さというのは、シェフが与える味だったりビジュアルだったりのインパクトだと思います。それがと、作り手に対する印象が変わってくる。今はそのインパクトがジェネラルなものでいい、という感じになっていることが残念です。
一つのものに対してストイックになる、というのは日本人の優れた部分のひとつです。例えば蕎麦にしても天婦羅にしても専門の職人がいる。ひとつのことを専門に突き詰めることは凄いと僕も思っていますが、フランスではやはりそうはいかない。
お店のメニューはどうやって決めていらっしゃいますか?
その日に入ったもの、それからちょこちょこ、と週に2-3度は変えています。食材によって、気候によって。これほど暑くなってしまうと(お話をお伺いしたのは猛暑の日が続いた7月のはじめ)熱いものよりも冷たいものを、とか。
さきほどいただいたズッキーニの冷たいスープは本当に美味しくて、ありがたかったかったです。
将来の話に戻りますが、いつまでお店を続けていくおつもりですか?
体力面で、やっぱりどこかで限界がくるだろう、と思っています。健康のことを考えると長くはできない。
定休日は?
土曜の昼と日曜日です。日曜日の昼間はほとんどの時間を市場で過ごしているので、実際に休めるのは日曜の夜だけです。まあ月曜日などはお客さんが来ないだろうと思ったら早々に閉めることもあります。その辺は自由に、臨機応変にやっています。
この辺りはリヨンではどのような地区ですか?
学生街です。大学のキャンパスが両側に、大学病院もあります。店を始めた頃は辺りには何もなく、サンドイッチを売る店ばかりだった。その頃から比べると変わったし、おしゃれな店もできました。
この夏の予定は?
スペインへ2週間ほど。ワインでお世話になっている人の結婚式があるので、いつもよりも少し早めに切り上げて帰ってきます。
南ですか?
いえバルセロナ、大好きなんです。昔は汚くて怖い地区もありましたが、今はずいぶん治安も良くなって綺麗になりました。 サグラダファミリアからそれほど遠くない場所にあるアパートホテルに滞在します。治安もよく、車もずっと泊めておけるのでいいですよ。
車で行かれるんですか?そうか、リヨンからならそれほど遠くはない?
ゆっくり走って7時間ぐらいです。いずれにしても、車じゃなきゃ無理です。オリーヴオイルなど、美味しいものをたくさん積んで帰ってくるので。
EN METS FAIS CE QU’IL TE PLAIT
Adresse : 43 rue Chevreuil, 69007 LyonTEL : 04.7872.4658 (金土の夜は要予約)
URL : http://www.enmetsfaiscequilteplait.com
昼のコースメニューは25€、夜は38.48€