今年は第1次世界大戦の開戦から100年をむかえる。日本の歴史の教科書などでは、日本もこの戦争に参戦したものの、中国の青島(チンタオ)や南太平洋諸島のドイツ領を占領しただけで激戦を経験しなかったというのが一般的な認識となっている。同じ時期に多くの日本人がカナダ軍兵士として出征した、という事実はあまり知られていない。
彼らはフランスの戦場からカナダや日本の肉親に宛てて手紙や、ときに遺書をしたためた。つまり凄惨を極めた西部戦線の塹壕の中でも日本語が母国語として綿々と綴られていたのだ。
彼らがどのような手紙を残していたのか知りたくなってバンクーバーの国立日系人博物館に問い合わせると、懇切にも学芸員のリンダ・レイドさんがメールで詳細を教えてくれた。
今でこそ移民の受け入れの賛否が議論されているが、19世紀末から20世紀前半にかけて、日本は逆にアメリカ大陸に多くの同胞を送り出す立場にあった。その主要な移民先のひとつがカナダだった。当時、アジアからの安価な労働力が自分たちの職を奪うとして、〈黄禍論〉が勢いを増す中、カナダの日系移民たちも市民権をもらえないという苦渋を味わう。国の一員として認められないのなら、兵役や召集の対象ともならないのだが、彼らが敢えて志願してヨーロッパの戦場に赴いた背景には、カナダ社会に認めてもらいたいという強い意志があったからだ。それゆえ彼らの志気は高く、敵のドイツ兵が恐れをなすほど勇猛果敢な戦いぶりをみせた。勲章を受けた者も多くいる。
その反面、彼らの書簡には仲間の負傷や戦死、そして地獄のように危険で不衛生な塹壕の日常が克明に描写されている。日本からカナダ、そしてフランス。生きることを求めて厳しい海外の修羅場をくぐり抜けた彼らの心の拠り所は、ただ母国語の中にあったのかもしれない。読書は戦地の数少ない娯楽のひとつだったが、塹壕の彼らの元にも、カナダの邦字新聞『大陸日報』が届けられていたという。
1918年の終戦までにカナダ軍の兵士として約200名近い日本人が西部戦線で戦い、うち54名がフランス北部のヴィニーなどの戦場で命を落とした。戦後、彼らの功績は宗主国・英国のジョージ5世から格別の賞賛をうけるところとなり、それがカナダにおける日系人の立場の向上にもつながった。
いつの時代でも外国から来た者たちが受け入れ国の一員として認めてもらうには、並々ならぬ苦労を要する。「お前は、果たして命を危険にさらしてまでも自分の暮らす社会のために戦うだけの気概はあるのか?」日本人兵士たちの手紙からはそんな問いを突きつけられるような思いがする。ドイツ軍の機関銃掃射に向かって進んでゆく日本兵たちを、サチマロ・モロオカという兵士はこう俳句に詠んでいる。
「兵を遣るラインの川や雪解水」
よしんば大河の一滴となろうとも戦っていこうではないか!(康)