暗殺される前日の7月30日、ジョレスの一日はあわただしかった。ブリュッセルの会合で欧州の社会主義者たちと戦争回避の手段を模索し、夕方パリに戻ると議会に直行し、議員団にその内容を報告。その後モンマルトル通りの『ユマニテ』の編集部で、論説を深夜零時まで書き、近くの〈カフェ・デュ・クロワッサン〉でビールを傾けた。過激な新聞は彼を「裏切り者」呼ばわりし、暗殺をほのめかす脅迫状さえ送られてきていた。それを心配する同志たちに午前1時にタクシーに乗せられて16区の自宅に戻った。物影から28歳の愛国主義者の青年ラウル・ヴィランがその挙動を追っていることも知らずに。
翌31日、すでにドイツはフランスとの交通通信網を遮断し、両国の商取引も停止していた。それでも戦争を避けようと彼は議会を駆け回り、大臣たちとの交渉を重ねる。一方、ヴィランは、午前11時に起きて、リュクサンブール庭園で新聞を読み、夕方にはノートルダム大聖堂で祈りを捧げた。そして家族に手紙を書くと、モンマルトル通りに向かった。
21時10分。ジョレスは〈カフェ・デュ・クロワッサン〉で、仲間と好物の洋ナシのブランデー漬けに舌鼓を打っていた。ヴィランはカフェの窓辺に立った。ピストルを手にした腕が伸び、ガラス越しに2発の銃弾が政界の巨象の脳天をめがけて放たれた。即死だった。逃走しようとした青年は捕まった。司法解剖のため遺体を安置所に運ぼうとした警官に、ジョレスの友人が「もう家に帰してあげてくれ」と頼んだ。平和のために寝食を忘れて全力疾走しつづけた彼をいたわるように。
翌日、フランスでは総動員令が発令され、葬儀の前日の8月3日にはドイツと正式に戦争状態に入る。犯人が現行犯で逮捕されたにもかかわらず、暗殺事件の真相究明はいびつな軌跡を描き始める。事件直後から犯人ヴィランが精神異常者であるとか、背後に暗殺を指示したものがいるといった説が飛び交った。公判が開かれたのは、事件から5年近く経った1919年3月24日。証人の多くが前線にいて審理ができなかったというのが公の理由だが、実は、平和主義者ジョレスを殺した犯人を裁くことで世論が二分され、右派左派一丸となって戦争を推し進めていた挙国一致体制が危うくなることを恐れた政府の画策だった。さらに、フランスが勝利したことが事件の重大性を弱め、真実追求のほこ先を鈍らせた。異様な判決が下った。12人の陪審員中、11人がヴィランは無罪と判断、彼は釈放される。
無論、ジョレスの支持者たちは黙ってはいなかった。パリでは組合労働者たち10万人のデモが警察と衝突し死者を出している。
ヴィランは報復を恐れ、偽名で欧州各地を転々とする。そして1932年にイビサ島に安住しようとするが、スペイン内戦が勃発。1936年9月13日、フランコを支持するイタリア軍による空爆の最中、島を占拠していた無政府主義者たちによって処刑されている。
Taverne du Croissant : 146 rue Montmartre 2e
外壁に「1914年7月31日、ここでジャン・ジョレスが暗殺された」という碑がある。