ガーンジー島のユゴーの家「オートヴィル・ハウス」
1851年12月、ナポレオン3世のクーデターに異議を唱えたユゴーは、19年に及ぶ亡命生活に入った。イギリス海峡に浮かぶガーンジー島には、作家が1856年から1870年まで暮らした家「オートヴィル・ハウス」が今でも残り、一般に公開されている。ユゴー自らが内装を手がけたこの家は、その哲学を反映するようにすべてが型破りだ。家具一つとっても一風変わっており、探してきたアンティークをさらに分解して再構築したものが多い。 家の構造自体も、隠し扉の裏に暗室が隠れているかと思えば、凝った造りをしているのにほとんど使われてない大きな部屋があったりして、どこかミステリアス。歴史ある劇場かホテルのような重々しさや壮麗さは、ユゴーの執筆する書物に似て、 そのエネルギーで訪れる者を圧倒する。
玄関を入ってすぐのところにあるのは、息子たちのためのビリヤード台、 壁のみならず天井までがタピスリーに覆われている薄暗い控えの間、そして壁面をオランダのデルフト・タイルが飾る光あふれる食堂。食堂と玄関を分けるどっしりした扉の上には、ラテン語で「人生は亡命である」の文句が大きくくっきりと刻まれている。食堂脇のスペースに誇らしげに陳列されているのは、ユゴーがシャルル10世から贈られた皿のセット。歳をとるにつれて反体制派になったユゴーだったが、若かりし頃は王を讃える詩を書き、その功績を認められて年金を受けていたこともある。ただ、そこは自由を愛する詩人のこと。作品の内容に口出しされるようになったが最後、年金を潔く断ったというエピソードがある。
階段を上がった2階にあるのは、ユゴーが「あまりにも醜いために美しい」と評したというロココ風のきらびやかな部屋。「赤のサロン」、「青のサロン」と呼ばれたこの空間に客を招いて演劇上演を行うこともあったという。
3階に上がると雰囲気はがらりと変わり、暗い色調のカシの木で設(しつら)えられたどっしりした空間が広がる。重厚な書き物机や巨大なベッド、やはり樫の木製の燭(しょく)台があり、「これこそ作家の部屋」と言いたくなる。不思議なことに、実際にユゴーがここで執筆をしたり眠ったことはほとんどないのだという。部屋の中央にある柱には、それぞれラテン語で「悲しみ」「喜び」、ベッドには「夜、死、光」という言葉が刻まれていて、謎解きをしているような気分にさせられる。実用的な意味はなかったといわれるこの部屋は、亡命中のユゴーにとっての魂のよりどころだったと考えられている。
蔵書が並ぶ廊下を通り、さらに階段を上ったところが最上階。作家自身が「クリスタル・ルーム」、「ルック・アウト」と呼んだガラス張りの空間からは港や海が一望でき、天井からは明るい光がさんさんと降り注ぐ。冬は寒く夏は暑い、いわゆる女中部屋を改装して創作の場を作り出しているところが、慣例に縛られるのを嫌うユゴーらしい。 部屋の両脇には作りつけの折りたたみ式の黒い書き物机があり、ユゴーはここで、血液の循環にいいという健康上の理由から立ったまま執筆したという。天気がいい日は、海の向こうにフランスが見えた。
この部屋で精力的に執筆に打ち込んだユゴーは、「どうしてもっと早く亡命しなかったのだろう ! 時間がなくなるからと思ってしなかったことが、きっとできていたに違いない」と語った。『レ・ミゼラブル』が完成したのも、『海の労働者』、『笑う男』などの小説が書かれたのもこの部屋だった。亡命してから8年後の1859 年には恩赦が降りてフランスに帰還することが可能になったが、完全なる自由を求めるユゴーはそれをかたくなに拒否。祖国にようやく帰ったのは、ナポレオン3世が失脚した1870年のことだった。
そんなユゴーにとって、他者の自由は自分の自由と同様に大事だったという。生涯を通して内外の社会情勢に敏感だったユゴーは、児童労働や死刑に対して反対運動を起こし、スペイン政府に対して戦うキューバ人、フランスの軍隊に攻められるメキシコ人、トルコの圧政に苦しむクレタ島の人を支持した。「ああ!『私』が『あなた』でないと考えるなんてことは、常軌を逸している!」と書いたユゴー。虐げられている人々を、黙っては見ていられなかった。
「クリスタル・ルーム」の一隅に折りたたみ式の書き物机。 ユゴーはここで立ったまま執筆した。
壁面にデルフト・タイルの食堂。
2階にはカシの木でできた巨大なベッド。