最後まで人道的な闘いをやめなかった。

 11月22日、ダニエル・ミッテランが87歳で亡くなった。ペルシャネコを思わせる青い眼を生き生きと動かしながら、リベラシオン紙のインタビューで「常に眼を見張り、闘い続けることが、私を社会に対し敏感にさせてくれるのです」と語っている。4年前の83歳の時だ。
 夫のフランソワ・ミッテランが大統領になっ た後も、彼よりも左よりの信念を譲らず、1990年以降は、さらに積極的に人道的活動に関わっていく。最初の闘いは、イラクのサダム・フセイン政権下で弾圧されていたクルド人を支援し、彼らの独立運動を支持することだった。1992年にベルナール・クシュネール人道活動担当相とイラクのクルディスタン地区訪問中、乗っている車が襲撃を受け九死に一生を得ている。
 その後も、南アのアパルトヘイト、世界各地での死刑制度に反対し、アフリカでのエイズ感染者を減らすための運動などに積極的に関与。最近では、1986年に自ら創立した〈フランス・リベルテ〉基金を率い、「万人に水を」という運動に力を注いでいた。政治的には西サハラ独立運動を支持したり、エリゼ宮にフィデル・カストロを招いて?にキスしたり、メキシコでサパティスタ解放軍のマルコス副司令官を激励したり、パスクワ元内務相の移民政策を激しく非難したり、夫の政治路線からはみ出したりもした。
ミッテラン大統領は、そんな妻の活動にブレーキをかけたりすることはなかったし、それを政治的に利用したりすることもなかった。お互いに自由を認め合う信頼関係があったのだろう。
 ダニエル・ミッテランはエリゼ宮に住むことを避け、5区のビエーヴル通りの自宅にとどまり、夫の女関係にも眼をつぶった。後年なぜ離婚しなかったのか、という問いに「一時的な感情ですべてを失うかわりに、私たちは違った生き方をすることを選んだのです」と答えている。夫の埋葬の時も、隠し子だったマザリーヌとその母アンヌ・パンジェを同列に並ぶように計らい、マザリーヌを抱擁した姿が忘れられない。
 ダニエル・ミッテランは1924年ラ・ムーズ県ヴェルダン生まれ。両親は共に教師で、心からの共和主義者。父は、ユダヤ人生徒のリストを提出せよというヴィシー政権の指令を拒み、教育界から追放される。そんな父の生き方を受け継いだ彼女は、17歳でレジスタンスに入り、そこで19歳の時にミッテランと知り合うことになる。レジスタンスの一員をかくまった父は逮捕され、ゲシュタポの拷問を受け、パリ郊外フレーヌ刑務所に送られ、1945年に獄死。ダニエル・ミッテランの胸中に、世界の不正への怒りの炎が燃えていたのは当然といえば当然だ。(真)

Danielle Mitterand