12月17日、チュニス南部の町シディブジッドで、大卒失業者ブウアジジ青年(26)が野菜を売る手押し車を警察に押収され、絶望と屈辱に耐えきれず焼身自殺した。この事件が引き金となり、とくに若い世代がベンアリ大統領政権の打倒と民主化、自由を叫び「ジャスミン革命」に発展。
警官隊の銃弾による死者は3週間で78人、負傷者が続出するなかで(軍隊は制圧を拒否し市民を支援した)、23年来の独裁者ベンアリ大統領とレイラ・トラベルジ第二夫人(元美容師)は1月14日、1.5㌧の金塊と共に国外逃亡をとげ、サウジアラビアに逃れた。反乱市民は、腐敗政治に輪をかけてレイラ夫人一族が市場を独占、マフィア並に私腹を肥やしたことへの怒りを爆発させた。市民は、前大統領配下の与立憲民主連合RCDの解散を要求、前大統領に追従してきた閣僚・政治家らの締め出しを叫び続け組閣が難航。26日、ガンヌーシ前首相が臨時大統領に就任した。
1956年に仏保護領から独立後、ブルギバ初代大統領は女性投票権と男女平等の離婚要求権を敷き一夫多妻制を廃止した。非石油国という弱点をカバーするため教育促進政策により就学率92%、大卒者は年35万人(96-97年 :12 万人)にのぼる。観光産業(年700 万人)とテキスタイル下請業界は定着したものの大卒者の40〜45%は失業者だ。
ミッテラン、シラク、サルコジ大統領と仏政府がチュニジアの民主化と経済成長を絶賛してきた裏にはイスラーム原理主義への防波堤にする意思があった。米国政府がアラブ世界唯一のイスラエル承認国エジプトを熱心に支援してきたように。
チュニジア革命がベンアリ大統領を失墜させた10日後の1月25日、革命の火はケータイ、フェイスブックを介しエジプトに飛び火。1981年サダト大統領暗殺事件以来君臨するムバラク大統領(82)の退陣を叫ぶデモ隊は膨張し続け、連日カイロのタハリール広場を中心に約100万人が参加し、軍隊の弾圧で約300人死亡。ムバラク大統領を英雄視し、支持する保守派市民が大統領打倒反対デモに出、2派対立の混乱状態が続いた。
チュニジアでは市民・大卒者が前面に出たが、エジプトでは労働者・貧困層、ムスリム同胞団教徒らが中心だ。失業、物価高(インフレ率11.7%)に苦しむ国民の40%は貧困層に属し、日収2ユーロ未満。都会の過密化で郊外のスラム化が進む。
ムバラク大統領は30年来非常事態令を維持し、ムスリム同胞団を抑圧してきた。元空軍司令官ムバラク大統領と軍部の関係は深く、1月31日大統領は9月の大統領選まで留任すると宣言し、スレイマン情報・諜報庁長官を副大統領(74)に任命した。が、大統領の即時退陣を叫ぶ市民の怒りは鎮まらない。ムスリム同胞団幹部らも釈放され、亡命国から指導者が戻ってくるなかで、エジプト国民が待ち望むのは、イランのホメイニーのような指導者なのか、またはトルコのように西洋に帆を向ける政教分離の自由国家なのか。(君)