11月14日夜、第三次フィヨン内閣が誕生した。2007年5月、大統領に選ばれたニコラ・サルコジが、選挙キャンペーンを率いたフランソワ・フィヨンを首相に任命してから3年半経っている。昨年まで、フィヨン首相は、国民投票で選ばれる大統領に権力が集中されて首相の権限がもともと狭まれている上に、重要法案が国民議会にかけられるたびに担当閣僚を差し置いてテレビでその法案を弁護したりするサルコジ大統領の影に隠れていた。ところが今年になってからは、サルコジ大統領の支持率が、こうした押しの強さが裏目に出て下降の一途(最近のリベラシオン紙の世論調査では32%)。それに引き換え、落ち着いた政治姿勢のフィヨン首相の支持率は落ちない(47%)。そんな首相の人気にあやかって2012年の大統領選を目指そうというのだろうか、サルコジ大統領は「彼はフランスで最良の首相だ。私たちの協力関係には何の問題もない」などと手放しの賛辞。
1954年3月4日、フランソワ・フィヨンはサルト県のルマンに生まれる。母は歴史家、父は公証人、4人の弟がいる。ハイキングや登山が大好きで、ボーイスカウト内ですでに指導力を発揮する。17歳でバカロレアを取得。大学で公法を学びながら、ジャーナリズムにも興味を持つ。ドゴールに心酔し、1976年にサルト県選出のジョエル・ルトゥール国民議会議員の秘書になり、かわいがられる。1980年ウェールズ出身の女性と結婚し、これまでに5人の子供をもうけている。同じ年の12月、ルトゥール国民議会議員が心臓マヒでフィヨンの腕の中に倒れ込み、その場で数時間後に死亡。その4カ月後には末の弟アルノーが交通事故で死亡という悲劇が相次ぎ、心の大きな痛手となる。
1981年、国民議会議員に最年少の27歳で当選。1983年にはサブレ・シュル・サルト市の市長に選ばれる。1992年にはサルト地方圏議会議長に、翌年にはバラデュール内閣の高等教育・学術研究担当相と、トントン拍子の出世を果たす。2002年ラファラン内閣の労働・連帯相に就任し、定年制改正と労働時間35時間法改正という大任を負うことになる。ところが各組合のリーダーと「フィヨン流儀méthode Fillon」といわれる根気づよい交渉を繰り返し、8組合のうち5組合の合意を得ることに成功したことは記憶に新しい。
最近のフィヨン首相、サルコジ大統領がおとなしくなったこともあり、マスコミへの登場回数も増え、国民議会での答弁姿も自信にあふれ、サルコジ大統領のロマ人国外退去対策に批判を差し挟んだりもする。彼が大統領候補に名乗り出たりしたら、サルコジ大統領の目論見を裏切り、強力なライバルになりそうだ。(真)
「フィヨン、サルコジを引き留める」と皮肉たっぷりの11月15日付リベラシオン紙の表紙。