カンヌ映画祭終了。女優賞を獲得したシャルロット・ゲンスブールに感動し、彼女が文字通り身体を張って主演したラース・フォン・トリアー監督の『アンチキリスト』からは、そこに描かれたことのみならず、映画とは? 映画表現とは? 役者とは? と様々な思索を喚起させられた。
夫婦(シャルロット・ゲンスブールとウィレム・デフォー)が風呂場でセックスに没頭している間に、就寝していたはずのヨチヨチ歩きの子が起き出し、窓から墜落死してしまう。これが映画のプロローグで、罪悪感にさいなまれる夫婦の苦悶がテーマ。と、話はシンプルだが、罪の意識を十字架のように背負いさまよう魂、ざんげの行為、二人に果たして救済は訪れるのか? 観客にとっても苦行の1時間44分だ。妻はわが子を亡くした苦しみを罪の意識へと転化し自分と夫を傷つけまくる。理性的であろうとする人間にとって一番の難物がセックスという代物。彼女のざんげは、この難物に白羽の矢を立て、究極へと向かう。夫の性器を、自分の性器を、切断してしまうのだ。トリアー監督は容赦なくすべてを見せる写実主義(?)。日ごろ、映画表現とは、観客の想像で補って初めて完成すると考えているので、こうあからさまに一から十まで提示されてしまうと、ある意味シラけるが、一方で脳天をかち割られるようなショックはある。これもまた映画表現なのだろう。
この監督の過酷な注文を受けて立った女優シャルロット・ゲンスブールは、偉いというか凄いというか立派というか、脱帽。自意識を捨て表現手段となって作品に飛び込む、俳優という仕事を選んだからには当たり前かも知れないが、なかなかできるもんでもない。今年のカンヌの審査委員長を務めた大女優、イザベル・ユッペールから同志への熱きエールを感じる授賞だった。(吉)