バルザックの料理帖–3

 仕事中のバルザックは、昼食によくœufs frais à la mouilletteという、フィンガーパンを食べていた。細長いバター・トーストにパセリをふり、半熟玉子の卵黄をからませて食べる。そそくさと食事を済ませ、再び仕事に戻る作家の姿が目に浮かぶよう。ワインは飲まず水だけを飲み、この粗食を例の濃厚なブラックコーヒーで締めくくった。夜もごく少量の粗食で済ましていたが、昼と違うのは、そこにワインが加わること。故郷のトゥーレーヌ地方ロワール川流域の白ワイン、ヴーヴレを軽く一杯飲み、いい気分になっていたという。この地方だけでとれるシュナン・ブラン種のブドウから造られているヴーヴレは、爽やかな果実の香りが特徴。
 『谷間のゆり』を読むと、トゥーレーヌ地方のブドウの収穫時期のお祭り騒ぎがありありと目に浮かぶ。「樽作りの職人や、笑い声のにぎやかな娘たちを乗せた荷車や、ほかの季節よりもいい給金をもらって、何をするにも鼻唄まじりの連中などのにぎやかさに、まったく何もかも活気づいている気がします」(宮崎嶺訳)。この時期は、階級の区別を忘れ、皆で収穫の喜びを分かち合ったという。『谷間のゆり』の主人公も恋焦がれるモロソーフ夫人の畑でブドウ摘みに参加することになり、ブドウの木と夫人の間を行ったり来たりしては、一房摘むたびにそれを夫人に見せるというはしゃぎ様。大自然の中で働いて心が開放される快感を存分に味わっている。バルザックも一杯のワインを飲みながら、畑でつまみ食いをしたブドウの味を思い出したり、モロソーフ夫人のモデルであるベルニー夫人に思いを馳せたり、また脱稿後の饗宴のことを考えて慰められていたに違いない。(さ)