ケーキを食べ終わってからコーヒー?
まだフランスに来たばかりのころに、あるフランス人の家庭に招かれ、不思議に思ったことがある。夕食をごちそうになり、その後、デザートが登場!
おいしそうなケーキをマダムが切り分けてくれる。では、いただきま〜す! と食べ始めるみんな。でも、わたしだけは心の中で、「あれ?
コーヒーや紅茶は一緒に飲まないの?」という疑問が浮かぶ。勇気を出して、「コーヒーもらってもいいですか?」とお願いすると、「え? 今?
ケーキのあとではなくて?」と逆に尋ねられる。え? コーヒーはケーキのあと?! 招かれたほかのフランス人にも「ケーキとコーヒーを一緒にほしいの?
そんなに急いでるの?」と質問されてしまった。その後、この習慣にはすっかり慣れたが、慣れるまで、「ケーキが甘くてのどが乾く。一緒にコーヒーが飲みた
い!」とずっと思っていた。なぜケーキのあとにコーヒーなのだろう? 同時にいただくのは邪道なのか?
フランスのテーブルマナーの本によると、「料理は前菜、メイン、チーズ、デザート、最後にコーヒーの順序でサービスされる。コーヒーは消化を助けるもので、コーヒーの代わりに食後酒を出してもよい」との記述。わたしにとって、コーヒーはおいしいケーキのお供、という感覚だったけど、フランスではケーキばかりではなく、食べたものを消化させるのに役立てる飲み物であることを改めて確認! ちなみに、ケーキが甘くて、のどが渇いたらどうする?と友人に尋ねると、「お水があるじゃない!」と当然のように言われた。やはりケーキと一緒にコーヒーを、という考えはあまりないようで、コーヒーはあくまでも消化を助ける飲み物のようだ。(穂)
日本では、食卓を拭くとき、ふきんを使うけど、それがフランスではスポンジ。少し湿ったスポンジをテーブルにささっと走らせる。フランスの家庭で初めて見たとき、「それだけで終わり?!」と衝撃を受けた。なぜスポンジなの?
という疑問をフランス人の友だちのお母さんに思い切って聞いてみた。「ふきんを使う家庭もあると思うわ。でも油っぽいシミをふきんで拭いたら、そのあとふきんをきれいに洗うのって大変じゃない?
その点、スポンジの方がラクチンよ」。なるほど、ふきんをきれいにする、という仕事が増えると考えられているようだ。彼女の方から「日本では、ジャムなどのシミもふきんで拭くの?」と尋ねられて、これって食べ物の違いも関係しているかもしれないと感じた。
食文化を比較すると、おそらくフランスの方が油分の多い食事なので、食卓を拭くというよりも、スポンジを使って食卓を「洗う」「(がんこなシミを)洗い落とす」という感覚なのだろう。(穂)
フランスに住み始めて間もないころ、歩道で前を歩く女性の手元からハラリとバスの切符が落ちた。とっさに考えたのは「拾ってあげなくちゃ」で、切符は捨てられたのだということを理解するのに数秒かかった。日本でゴミをポイ捨てするのはつっぱった若いニイチャンとか、とにかく社会のルールなんて守らないよ、という類の人だ。フランスでは、きちんとした身なりをした女性もゴミを道に捨てるんだ、と発見したことはカルチャーショックだった。
それから、ゴミをポイ捨てする人が意外と多いことに気づくのに時間はかからなかった。公衆トイレの汚さ、犬のフンしかり。フランス人の家を訪ねるときれいにしてあるし、もちろんゴミや犬のフンは落ちていない。彼らは決して不潔好きではないのだ。ところが公共の場所は汚い。公共の場所をみんなのためにきれいに保とうという社会規範や認識は存在しないのだろうか、という疑問がわいてきた。考えてみるに、まずそういう教育があまりされていない。日本の学校のように公共の場をきれいにしようと口をすっぱくして言われないし、掃除時間もない。フランスでは自分の家など私的空間は自分の責任できれいにする一方で、路上などの公的空間をきれいに保つのは自分の義務ではないという考えがあるのかも。
公的空間では「私捨てる人、あなた拾う人」とばかりに、一般の人は捨てる「権利」を有し、市町村の清掃係がきれいにするものだと考えているフシがあるようだ。ということは、その権利を剥奪する法律で規制するか(ゴミ捨てたら罰金)、教育を徹底するか。今ではフランスの小学校でも市の清掃局の人が来て、ゴミを道や公園に捨てないようにというお話をするらしいし、ゴミはごみ箱に捨てるように子供に言い聞かせている親も見かける。数十年後にその成果が現われるかも、と期待するのは甘い? (し)
フランス人はなぜパンやクロワッサンを温かい飲物に浸して食べるのか?
フランス人は、バターとジャムを塗ったパンやクロワッサンを、コーヒー、紅茶に浸して食べるのが大好きだ。カフェオレカップの口が広いのは、パンを浸して食べやすいから。英米独で普及しているマグカップは、食べ物を浸しにくいので、なかなか広まらない。パンだけでなく、クッキーも浸して食べる。飲物がバターでギトギトになる。ドイツ人、イギリス人、ベルギー人は、このシーンを見てカルチャーショックを受けるらしい。
フランス人に理由を聞いてもわからない。国民的食べ方と化しているので、誰も不思議に思わないのだ。そこで、想像してみた。ドイツやイギリスと違って、フランスのパンはすぐに固くなる。昔は今のように飽食の時代ではなかったから、捨てることはない。固いパンを食べやすくするために浸すようになった。だって、スープにも固いパンを浸して食べているじゃないですか?(羽)
アジアなフォントの不思議
みなさんも一度は目にしたことがあるだろう。イラストにあるようなギザギザとしているなんとも表現するのが難しいこのフォント。ちょっと読みにくい、けど忘れられないそんな形をしている。パリにいると結構見かける機会が多くて、例えば、〈なんちゃって〉SHUSHIレストランの看板とか、Zenについて書かれた雑誌の見出し、Mangaのタイトル等々。要するにアジアらしさを意図的に表現したい時に使われているようなのだが、肝心の日本ではこのようなフォントを見たことがない。だいたいパリの日本人経営のレストランや、日本人が作る雑誌などではこのフォントは使われていないようだ。日本人の手によって作られたものではないらしいこのフォントが、なぜアジアの代表のように扱われるのか。どこの誰によって作られたのか、そもそもどうしてこんな形なのか。そんな疑問で頭が一杯の私に、編集部よりこのフォントの不思議を調査せよとの命令が下った。よし、この際、納得いくまで調べてみよう。
ついにやってきた解明の時とばかりに乗り込んだ〈なんちゃって〉SHUSHIレストラン1軒目、「社長はバカンスで海外です」。2軒目、「看板の文字!?全く知りません」。惨敗気味、気を取り直してカンバンを実際に作るカンバン屋に聞いてみようと近くのカンバン屋に走る。しかし、こちらでも納得できる返答はなかった。途方に暮れている私を見て社長さんがひと言、「こういうフォント、GEISHAとか名前が付いているんだよ」。本当に!? それ面白い!!早速こちらのフォント集を調べてみたらビックリ。出るは出るわ、へんてこネーミングのオンパレード。その名もサムライ、カタナ、シャンハイ、ニッポン、ヒロシ!? なんてのまである。そうか、もしかしたらこのフォント、メイド イン フランスのフォントなのかもね。
発端はカンフー映画の筆で書かれたタイトルの雰囲気を、そのままアルファベットで表してみたことによるのか。それがそのままカンフー人気に乗じて定着し、フランス人の間で広まったことを契機に商売利用にまで発展したのかもしれない。意気込んで調べてはみたものの、ちょっと不完全燃焼気味。読者の方でご存知の方いらっしゃったら、ぜひぜひ編集部までご一報下さい!(ミ)
夏は暑いから窓を開けるが、寒い季節には換気しない家庭がある。クリスマスにフランス人家庭に招かれた。普段3人しか住んでいない大きな家に、家族親戚十数人が詰めかけたが、一日中換気は一切なし。途中、酸欠で頭痛がしてきた。ところが、気分が悪くなったのは私だけで、フランス人は全員ピンピンしている(強い!)。別の家庭に招かれたときにも同じだった。宴会が終わって、寝る前に新鮮な空気を吸いたいので窓を開けたら、家の人から「寒い」と文句が出た。冬にヨガの合宿に参加した時。50人が大きなホールでヨガをしたが、休憩時間に換気する人はゼロだった(しかたがないので自分で開けに行った)。健康関係のジャーナリスト、マルチーヌさんは「フランス人全部がそうではないのよ。うちでは昔から朝昼晩、必ず換気しています。家の主婦が窓を開けるかどうかを決めるので、ほかの人はそれに従っている。そういう暗黙の了解があるの」と言う。
泊まった家のお父さんから「せっかく暖めた空気が逃げてしまうじゃないか!」と怒られたことを考えると、経済的にモッタイナイから、というのも理由の一つなのだろう。70年代の石油ショックの後、どんなことをしてでも暖めた空気を逃すまいとする工夫がなされたという。隣のドイツでは、驚くかな、冬でも寝るときに窓を開け、朝になると閉める。この間、暖房はつけっぱなし。窓を開けて寝ることが、呼吸にいいと思われているのだそうだ。夜中に暖房で息苦しくなるらしい。ライン河を隔てただけで、なんと国民性の違うことよ!ドイツ人と同室に泊まる時は、できるだけ窓から離れた場所で寝るようにしている。(羽)
つい最近メトロ車内で盲導犬を連れた女性と乗り合わせた。一緒にいた娘は「どうしてあの人は犬を連れているの?」と聞く。「犬が目の代わりをしているのよ」という私の答えに、「でも目が見えないのになぜ黒いメガネをかけているの?」とまた聞き返してくる。こういう時、大人はどうするか? ちゃんと説明するか、本当にちゃんと説明できるのか? 娘の父親はこんな時、「じゃあ君はどう思うの?」と逆に娘に質問する。これも一つの手、時間稼ぎには役に立つ。子供と生活していると毎日が「なぜ?」「どうして?」の繰り返しだ。「雷はどうして鳴るの?」と言われて、「それはね、かみなりちゃんが空の上で暴れてるのよ」。と答えられるのは幼稚園までのこと。成長するにつれ、彼らが不思議に思うことはどんどん高度になってくる。Dis pourquoi Papa ? ( http://dispourquoipapa.free.fr/) は、子供の質問に悩まされたある親がつくったサイト。宇宙、地球、動植物、人間、娯楽、科学・技術、歴史など分野別に子供が持つ疑問とその答えが挙げられている。
本屋をのぞいてみた。インターネットでのように子供の疑問に困った親への指南書はないけれど、Nathan、Gallimard Jeunesse、Milan、Seuilなど大手出版社が8歳ぐらいからの子供たちの疑問に答え、考える力をつけさせるべく様々な本を出している。「人はなぜ戦争をするの?」「人間とは?」「善と悪」「美しさと醜さ」など、こうした「哲学シリーズ」はイラストを挿入し、やさしいテキストで子供たちにわかりやすく語りかける。Autrement社が昨年出したLa vérité selon Ninonがマンガ形式で読みやすそうだったので購入してみた。母親が大切にしている花瓶を割ったニノンが怒られないためにうそをついたことから、「真実ってなあに?」という疑問にとりつかれる。「うそついちゃだめ!」と言うくせに、「嘘も方便」なんて勝手なことも言う大人にとっても勉強になるよくできた本だ。ところですぐには答えの出ない不思議だってたくさんある。だからこそ世の中って面白いんだよ…たまにはこんなふうに子供に答えてもいいかもしれない。(海)