tomber dans les pommes
「リンゴの中に落っこちる(=>気を失う)」という表現の起源は謎に包まれている。”être dans les pommes cuites(煮リンゴの中にいる=>疲れている)” という言い回しと関係があるともいえるし、それに近い表現 “etre cuit(煮上がった=>年貢のおさめどき、おしまいだ、力尽きた)”も頭に浮かぶ。どちらにせよ、この表現は今でもよく使われていて、”perdre connaissance(意識を失う)”というきびしい現実を和らげる助けになっている。
haut comme trois pommes
背丈の低い人をからかって使う表現。リンゴは大きくてせいぜい高さ10センチ。三つ重ねても大した高さにはならないね。
「インゲンの上を走る」という言い回しがどうして「うんざりさせる」という意味になるのか。コジツケ表現の典型だ。19世紀末くらいに”courir(走る)” を “importuner(うんざりさせる)”の同義語として使っていたことに由来する。別に補語は必要としなかったのに、ことさら”haricot(インゲン)”がくっついたのは、”haricoter”という今はなき動詞があり、「仕事上ケチである」という意味があったので、自然の成り行きだったのかもしれない。
C’est la fin des haricots
最後の最後のインゲン豆までを食べつくしてもう何も残っていないということ。「万事休す」 という意味になる。
“au baton(棒で)” 歩く人(おどかされたりよほどショックを受けないと行動に出ない人)もいるが、”à la carotte(ニンジンで)”歩く人もいる。ご褒美がないと動かない人のことだ。「クラスでいちばんになったら、誕生日に自転車を買ってあげる」と息子の成績しか頭にない父。「おとなしくしていたら、デザートはアイスクリームよ」と大声を上げる娘に疲れた母。魂胆丸見えだが、私自身も、月末にニンジンをいただけたら大満足。
marcher a la carotte
se payer la poire de quelqu’un
大衆的フランス語の大家、クロード・デュヌトンが指摘しているように、ひと昔前、ナシはいちばん愛されていた果物だったと思われる。ふつう果物は否定的なイメージで扱われることが多いのだが、ナシだけは、当然ながら喜びを呼び起こす時に使われる。例えば今でも、誰かといいことを分かち合う時、”couper la poire en deux(ナシを二つに切り分ける)” という。しかし、ナシは同時に「頭」や「顔」を想像させるから、”tête” や”visage” のかわりに使われて、 “faire sa poire(もったいぶる)” あるいは “se sucer la poire(激しくキスを交わす)” という表現がある。また “se payer la poire de quelqu’un”という表現もあるが、これは “se payer la tete de quelqu’un(からかう)” という表現のもっとくだけた形だ。