「観客にもドゥライと出会ってほしかった…」 Doulaye,une saison des pluies

「これはドキュメンタリーだけど、自分にとってフィクションとの境界線はとても薄いんだ。だって20年以上の時を経てドゥライに会いに行くということは、僕の日常やリアリティを越えることだったから」と、”Doulaye, une saison des pluies”を監督したアンリ=フランソワ・アンベールは語ってくれた。
大きな鼻と褐色の肌を持ったマリ人ドゥライとの出会い。彼の膝の上で遊ぶのが好きだった子供時代。淡く優しい記憶を残し、祖国に帰ってしまったドゥライを探す旅の彷徨を綴ったのが本作だ。”探す” というテーマは、前作 “Sur la plage de Belfast” (中古8ミリカメラの中に忘れられていたフィルムの主を “探す” ) から引き継がれている。
「旅の探索の道のりをきっちりと記録するために、いくつものツールを使い分けた。人にはじっくりと長回しがきくビデオ、風景やイメージの断片には8ミリや16ミリ、音にはテープレコーダー、心によぎった印象には手帳というようにね」集められた旅の足跡は、ほぼ一年をかけ入念にコラージュされ、映画となって昇華する。特に8ミリ特有のキメの粗い木々のざわめきや羽ばたく野鳥のイメージは、時を惜しみ封じ込めるような感慨に満ち、監督も好きだという映像の吟遊詩人ジョナス・メカスのフィルムを想起させる。時折挿入される監督自身によるナレーションは、ささやくようで繊細。映画の緩やかなリズムの中に、深く沈澱していくかのようだ。
「観客がイマジネーションを大きく働かせられるような映画が理想。そのためには全てを語ってしまうのではなく “静けさ” が必要だった。僕だけでなく、映画を観ながら、観客にもドゥライと出会ってほしかったんだ」ナレーションの声そのままに、若いのに静かに物語る “禅” なお方。しかし、創作の自由のためにTV局からの契約の申し出も断わり、「映画は義務じゃない」と言い切る姿勢に、純芸術家系・映像作家のゆるぎない意志を見た。(瑞)

●A l’est de la guerre

1938年11月、ナチス・ドイツに占領されたオーストリアは、ドイツ軍のために戦うことになる。終戦50年を機にウィーンで初めて開かれた、ドイツ陸軍の東方(ソ連、ユーゴスラビア) 侵略についての展覧会を訪れる人々の感想を集めたのが、ルース・ベッケルマンの撮ったこのドキュメンタリー作品。大戦に参加したと思われる男性たち (70〜80歳代) の微妙な表情の変化も見逃すまいと、ベッケルマンのカメラは容赦なく彼らに近寄っていく。
展示された戦争の記録を目の当たりにして、「これは嘘っぱちだ」、「こんなことは知らない」という人、「こうするより仕方がなかった」と事実を肯定する人とさまざまだが、彼らの口から軍が犯した罪を反省する発言は一切出てこない。「一介の兵士に何ができた?」と責任を転嫁する前に、「二度と繰り返してはならない」という勇気はないのか…。オーストリアでハイダーが率いる右翼政党がのさばる今日、彼らは相変わらず「一介の市民には何もできない」と首を振るだけなのだろうか?(海)