「他者」その未知なるもの
今年で4回目を迎えるリヨン現代美術ビエンナーレは、フルクサスやボイスの熱烈な擁護者として知られるハロルド・ゼーマンをコミッショナーに起用した。そしてテーマは、「L’AUTRE 他者」である。この言葉には様々な解釈がありうるだろう。人間の他者、人間以外の他者、つまり動物や植物など、人間以外の他のあらゆる存在、あるいは存在さえも不可知のものなど。ゼーマンは巧みに伏線を二つ敷いた。一つは目の前にいる他者達であり、もう一つは、狂気や神秘、幻想や狂信の他者である。
入り口右には郵便配達夫シュヴァルが作ったあの名高い宮殿の模型があり、中央の暗室ではゲリー・ヒルのフィルムで、様々な人種の様々な階級の人たちが、横並びに立っている。彼らは若干手を動かしたり、立つ姿勢をわずかに変えながら、ほとんど不動で立っているが、生きている者たちの映像である。ブランチェンハイムという米国作家は、ある未知のものに魂を奪われたとして、寓話的、神秘的な姿の妻を写真に収めている。E・クンツはスイスの神秘療法家で、振り子を使って、デッサンをしている。日本の 柳幸典は、蟻の後を追いかける痕跡がデッサンとなり、また蟻が大英帝国の砂の旗を崩壊させる作品を発表している。これらはまさに後者に属するだろう。
精神分析的手法で、他者をのぞかせるのは、ルイーズ・ブルジョワの「赤い部屋」であり、またV・コルペやG・ブルースのきわめてポルノグラフィックな素描も人間の無意識の欲望の果てを垣間見させる。C・バーデンのロータリーカーを起重機で持ち上げてブンブン回す作品などは、気違い沙汰なのだろうか。
ここにゼーマンの視点に対する一つの疑問が生じる。まるでケンタウロスのような後光の持ち主たちだけが芸術家なのか、社会と切り離された個人とは何なのか? (kolin)
*Halle Tony Garnier, Lyon (9/24迄)