H子さん(83)の父親は千葉県に生まれ、戦前、東京の風月堂に勤務。京都の女性と結婚、自分の店を創立。終戦時マッカーサー元帥に誕生日ケーキを供したこともある。73年、父の菓子店は日本国内に130店2500人を雇うまでに。H子さんは結婚し、73年に9歳、12歳の娘と来仏。父の長年の夢、パリで洋・和菓子店を開くことに挑戦した。H子さんは第二の故郷パリに43年在住。
お父さんの自慢のパティスリーは何ですか?
父のマロングラッセは日本一になりました。カステラは長崎の福砂屋さんに何度も通って、日本国内では販売しないという条件で秘伝を教えてもらいました。父が創作したのはシュークリームで、お茶会でも大き過ぎて食べにくいのでベビーシューです。わたしは父に似たのかフロンティア精神が強くパリでは独学でフランス語を習得し、フランス・アンテールのラジオを聞きながら、新しい単語をメモします。父が83歳(母は96歳)で亡くなり、洋・和菓子店は13年後に閉め、私は50歳で独立し総菜屋を始めました。しかし大変でした。従業員8人の社会保障費や材料の購入、家賃などで、入ったお金が全部出ていっちゃうのです。一番辛かったのは湾岸戦争の頃です。でも父に似て根性があったから耐えられたのでしょう。65歳で定年退職し、日本人会で俳句会の代表を10年務めた後、自己流で日本画を描き、カトリックセンターに通いながら紫木蘭俳句会を立ち上げ、毛筆の作品集を和綴じにして参加した方々に配ります。
娘さんのご家族はパリにおられますか?
娘2人は日仏カップルですが、合わせて5人の孫に恵まれています。父が言ったものです、 「おまえは西から、ぼくは東からのぼるが、互いに行き着くところは同じだね」と。父は熱心な日蓮宗信徒ですが、私は22歳でカトリックの洗礼を受けました。13歳の時、父と中村天風会の鍛錬会に参加し8月の1カ月過ごしました。天風様はインドで修行しインド哲学を学ばれました。若い時「何のために生きてるのだろう」と迷ったのが昨日のようです。定年になった時、パリを「終(つい)の栖(すみか)」と決めました。老齢ながら社会保障の優れたフランスで、日本人としての自負を持ち続け、幸せに暮らせることに感謝しています。
「赤富士は父の恋なりとこしえに」