『感情教育』(1869年)の主人公フレデリックは、作家になりたいと思ったり画家になりたいと思ったり、未来の目的が定まらない優柔不断な若者だ。でも、この作品の作者であるフロベールは、まるで作家になるために生まれてきたような人物。9歳の時から物を書き始め、病いによって安静を余儀なくされたこともあり、20代になると文筆活動に専念した。
芸術至上主義者であったことも手伝ってか、フロベールは生涯独身を貫いた。だからといって女性に対する興味がなかったわけではなく、むしろ、女性への思慕なしでは生きられないようなところがあった。ロマン主義華やかりし19世紀において、情熱のない作家など存在しなかったのかもしれない。
ノルマンディーの海岸で15歳の時に出会った初恋の人 エルザ・シュレザンジェール夫人、20代前半でやはりノルマンディーの海岸で出会ったコリエ姉妹、20代半ばから約10年交際した詩人で小説家のルイーズ・コレ、そして同時代の最も優れた芸術家のひとりであったジョルジュ・サンド……。彼女たちとの交際は、多くの時間を孤独のうちに過ごすフロベールの心を奮い立たせた。
快楽を求めて売春宿へ通った時期もあり、弟子のモーパッサンもそのお供をしたと伝えられている。『感情教育』に出てくる娼婦のロザネットの描写がいかにも本当らしいのも、きっとモデルが何人もいるからだろう。ところでこの女性、甘いものに目がない。「ロザネットはタルト・ア・ラ・クレームを二つほおばった。粉砂糖が口のはしに口ひげ形にくっついた。ときどきそれをふく ため彼女はマフの中からハンカチをひき出した。緑の絹帽子をかぶった頭は葉の中に咲くばらのように見えた」。(生島遼一訳)機嫌がいい時のロザネットは、自らが砂糖菓子になったように愛らしく変身するのだった。(さ)
