マダム・キミのシルバーラウンジ:11月1日号

 J. 河田氏(70)は芦屋市生まれ。京都芸大を出たあと、高校でデッサンを教える。28歳の時、1年の予定で来仏。18区のイタリア人老婦人のアパートに下宿し、ソルボンヌの文明講座に登録してフランス語を学ぶ。

 76年3月、植物園で写生をしていた時、元デザイナーだったという定年退職したばかりの紳士に声をかけられ、彼が働いていたパリ1区のデザイン会社の住所を訪ねて行くと、服地、壁紙、カーテン、テーブルクロスなどのテキスタイルデザイン制作のために20〜30人が働いているアトリエを見学できました。同年6月、経営者に作品を見せると、フリーのデザイナーとして採用してくれました。
 78年にオペラ界隈のパッサージ・ショワズールの画材店で仏女性と出会いました。彼女は近所の設計事務所で設計図のトレーサーをしていましたが、絵画や演劇に関心があり、能や歌舞伎など日本の芸能にも興味を持っていました。彼女と5年ほど付き合い、83年に結婚しました。
 70〜90年代はインテリア用テキスタイルデザインを手がけ、東洋的な図案などもヒントにし発展させました。バブル前は日・伊・独・米のファッション界はパリへの注文が多く、パリ1区のデザイン会社に勤務していた時は日本に私が売り込みに行きました。90年代以降はコンピューターとネットの発達で多くのデザイン関係の企業が倒産しました。
 私に起きた一大事は40歳の時、南仏旅行中に体がふらふらしエクス・アン・プロヴァンス の病院で脳腫瘍とわかり、マルセイユの病院で手術を受け、九死に一生を得たことです。今はリール近くの町に住み、もっぱら絵本の他、広範囲のイラストレーションの仕事に追われています。二人の息子がいて、長男は原子力エンジニアとして活躍し、レーシングカー・エンジニア志望の次男はグランドゼコール予科で勉強しています。芝居好きの妻は演劇クラブに参加し、芝居見学三昧です。ノルマンディーに、結婚式の証人となってくれた元同僚の別荘があり、夫婦で招かれたりしています。私は74年に来仏して以来、自分の好きなことを続けて暮らしてこられたことは、出だしから幸運だったのだと痛感しています。