Mai 68、5月革命。

68年とカンヌ映画祭

若い監督らが中心となり、映画祭中止を訴えた。

 1968年2月、時の文化大臣アンドレ・マルローは、シネマテークの創設者で館長のアンリ・ラングロワを解任。映画関係者の猛反発を受け、4月には元の座に戻されたが、この事件は権力に対する不信感を高めた。とりわけフランスの若き映画人が、5月革命に追従する下地を作った。

 こうして迎えた第21回のカンヌ映画祭。5月10日に、『風と共に去りぬ』のニュープリント上映で幕開けた。だが、開催3日目にはトリュフォーらが映画祭の中止を要請。18日にはついに実力行使に出る。

カルロス・サウラの『ペパーミント・フラッペ』上映の際、サウラ監督本人や主演のジェラルディン・チャップリン、そしてゴダールが、スクリーン脇のカーテンにつかまり上映を阻止したのだ。この流れに共鳴するように、アラン・レネ、ミロシュ・フォアマン、クロード・ルルーシュ、リチャード・レスターらが、次々とコンペへの出品を取りやめる。また、ルイ・マル、モニカ・ヴィッティ、テレンス・ヤングらは審査員を辞退。

 まもなくトリュフォー、ゴダール、クロード・ベリらはジャーナリストを前に会場の一室を占拠し、プロデューサーの怒りをよそに、意気揚々と映画祭の中止を訴える。「学生と労働運動への連帯を示す唯一の方法は、全ての上映をただちに中止することだ」(ゴダール)。審査員としてカンヌ入りしたポランスキーも、当初は「パリで学生がしていることと映画祭の間には関係がない」と懐疑的だったが、態度を一転させ仲間に加わった。結局、映画祭は19日に正式に中止に。1968年のカンヌ映画祭は、「風と共に去った」のだ。

 この騒乱を受け、映画監督協会はカンヌの非公式部門である監督週間を翌年からスタート。以後、カンヌ映画祭も、監督週間に負けじと先鋭的な作品をより積極的に紹介するように。ここから始まる「カンヌ事務局 vs 監督週間」の激しいライバル関係は、カンヌ映画祭そのものを豊かにしてきた。カンヌは今も、5月革命の大きな影響下にあるのだ。(瑞)

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