みゆきさんは1940年、北海道の小樽で生まれた 、4人兄弟姉妹の長女。警官だった父は出征しないで済んだ。終戦後、父の転勤に伴い北海道内各地で少女時代を送った。高卒後、東京の電気・放送専門学校の雑誌部で電器屋の息子と出会う。彼の「郷里に帰らんか」のラブレターに動かされて結婚し2児を産む。パリ帰りの若い女性の話を聞き渡仏の夢が具体化していく。
店の手伝いや二児の育児…と大変でした?
舅、姑、小姑もいましたから首に鎖を巻かれた思いでした。オホーツク海を眺めながら、アメリカでもフランスでもいいから行きたい気持ちでした。私は義兄が経営する店を夫と手伝い、社員にも慕われました。主人とは仲のいい友人同士といった関係を持てたので、互いの自由を認め合い、1977年に子連れ母としての渡仏を許してくれ、子供たちが成人するまで仕送りしてくれました。最初はホテル住まいでしたが、7区のブルジョアのアパルトマンの7階の屋根裏部屋に移りました。浴室などはないので子供たちを市営プールに連れて行って間に合わせました。エレベーターなしで、階段の昇り降りに慣れていたので、この歳になっても足腰はしっかりしています。私は絵のアトリエに通い、子供たちが成人した後、旅行関係の会社で働きました。
お子様の学校教育はいかがでしたか。
私は最初から子供とは日本語で通すことにしました。母親には日本語しか通じないことがわかっているので、家庭内では100%日本語です。息子と娘はそれぞれパリ大の理工科と生物学科を出て2人ともフランス人と結婚しました。東京で子供3人を持つ娘の夫は多国籍企業に勤務。息子はクラブメッドで働いた後、ガイドの免許を取り送迎や観光地巡りサービス業を始めました。
パリでは小樽でもしていたように、20〜40代の独身日本人男性仲間が私の7階の部屋に集まっては互いの体験談を交換し合います。サークル名は「 国境なき発見」。免税店や料理店で働く人や外人部隊にいた人、サッカー選手など多様です。もしかしたら日本語しか話さない先輩として頼りにされていたのでは。今はパリと東京に孫がいるので、もはや国境を感じることもなく、パリで異邦人と思ったこともありません。