マチュー・セゲラさん
トロカデロ広場の近くに、ジョルジュ・クレマンソー(1841〜1929)が33年間暮らしたアパルトマンがある。庭や書斎、美術品が壁にびっしりと飾られた居間など当時の面影をとどめた家は、今はクレマンソー博物館になっている。
ここで開催されている『クレマンソーと日本人』展*を見に行った。目玉はクレマンソーの5千冊の蔵書のなかから近年発見された、3冊の小さな写真帳。1880年代のものとされ、西園寺公望、乃木希典、松方幸次郎、板垣退助、岩崎弥太郎など、当時30-40代だった日本人126人の肖像が収められている。クレマンソーの日本への関心を示すと同時に、明治時代になって大きく変化する日本の姿がうかがえる貴重な史料だ。
この展覧会を監修したマチュー・セゲラさんは『クレマンソー、あるいは日本の誘惑』**や、『クレマンソー辞典』***(共著)、の著者。ギメ美術館での『クレマンソー、虎とアジア』展の監修にも参加した歴史家で、東京日仏会館の研究員だ。
「ドレフュス事件、第一次世界大戦など歴史の大事件で采配を振り〈虎〉の異名をとったクレマンソーは、政教分離の共和制を信奉し、当時まだ根強かった〈人種や文明の優劣〉論に反対したフランス政治家の手本のような人です。でも、彼の〈ジャポニスム〉を語らないことには、クレマンソーの人間像は不完全」だと言う。クレマンソーの伝記は数多くあるが、美術との関係に触れたものはなかった。セゲラさんはクレマンソーの家を訪れた時に浮世絵や仏像などが多いことに気がつき、18年ほど前にクレマンソーと美術について研究を始めた。
ニューヨークで記者をしていたクレマンソーは1869年にパリに戻った。1867年のパリ万博で日本美術が好評を博した2年後のことだ。その頃、法学を学びに渡仏した西園寺公望と出会い、日本美術品の蒐集に関して助言をもらったりもしたという。1906年、ふたりはそれぞれ首相に就任するものの、親交は1919年のパリ講和条約での再会も経て50年以上続いた。生涯一度も日本には行かなかったクレマンソーだが、日本の政治、技術や医療、宗教や美術に関心を持ち続けた。
彼の日本美術への傾倒ぶりは、当時「ジャポニザン」と呼ばれた日本美術品の蒐集家たちの枠を超えていた。「北条時頼と良源(元三大師)の坐像を国に買わせ、ルーヴル美術館のなかにフランス初の〈アジア美術館〉を作らせたり(ギメ美術館はすでにあったが当初は宗教博物館だった)、1890年にエコール・デ・ボザールで開かれた日本版画展には、自ら所有する12枚の版画を貸し出した上、展覧会を訪れたカルノ大統領を自ら案内するなど、日本美術の紹介者として奔走しました」。
無宗教主義でありながらもギメ美術館の仏事は欠かさなかったとか、一時は香炉を3千個も持っていたなどの逸話にも驚かされる。エヌリー、オランジュリーなどの美術館を作ったクレマンソーは、ミッテラン大統領の「パリ大改造計画」の先駆けともいえるそうだ。
セゲラさんは、今でも人々がクレマンソーに魅かれるのは「政治哲学や手腕に加え、ユーモアと皮肉のセンスを持つ洗練されたジェントルマンgentilhommeで、フランス精神を体現したような人だったから」と説明する。「自国や日本だけでなく、世界中の国々にも興味を持つ世界人Homme-monde」であるところも時代を先取りするクレマンソーらしく個人的に好きだという。日本では高校で歴史を教え、記事を書くこともあるセゲラさんは、アメリカで仏語を教え、記者でもあったクレマンソーに親近感を感じるというが、芸術に造詣が深く政治活動をしているなど、クレマンソーと共通点が多い。
「今の日本の若い人たちは日本が快適なために、外国に出たがらない印象を受けます。中江兆民や西園寺公望はハングリー精神をもってフランスで勉強しました。明治の人たちのように外へ出て、知的に豊かになってほしい」というのが、「世界人」の締めくくりの言葉だった。(六)
*Exposition Dossier ”Clemenceau et les Japonais”
『クレマンソーと日本人』展:7月31日(火)まで。
火〜土 14h-17h30。 8月休館。
**Clemenceau ou la tentation du Japon, CNRS Editions.
***Dictionnaire Clemenceau, Robert Laffont.
Musée Clemenceau
Adresse : 8 rue Benjamin Franklin, 75016 Paris , FranceTEL : 01.4520.5341
アクセス : Trocadéro
URL : www.musee-clemenceau.fr/
火〜土 14h-17h30。 8月休館。