いきなり日常がひっくり返ったショックで、ウイルスに巻き込まれてからもう長い時間が経ったような気がするが、ふと思えば、中国で最初に原因不明の肺炎患者が報告されたのは昨年12月。まだ4、5カ月しか経っていない。そんな短期間とはいえども、世界中でCOVID-19の研究は進んでいる。
ワクチン、ヒドロキシクロロキン
ワクチンの開発は、フランスではパスツール研究所と製薬会社サノフィが進めている。ただし普及するまでには少なくても1年半はかかる模様だ。治療薬に関しては、マルセイユの感染症研究所所長ディディエ・ラウルト教授がヒドロキシクロロキンを提案したことで話題になっている。この薬は、マラリアの治療薬として70年前から使われているクロロキンの代謝物質で、関節リウマチなどの自己免疫疾患の治療にも使われ、副作用が少なく安価である。中国、韓国その他の国々でCOVID-19の治療薬としてすでに認可されている。
フランスでは、一応認可はされたものの、重傷者にしか投与できない条件付きだ。ラウルト教授は重症者には効果を示さないといっているのに、なぜこの条件で認可が出されたのだろうか。完全に認可されるには複雑な規定に従った臨床試験が必要となる。素人には歯がゆいばかりだ。
欧州レベルの治験プロジェクト「ディスカバリー」
COVOD-19 は感染スピードが早く毒性も強いので、早急に治療法を見つけないといけない。研究は世界各国で進められているが、ヨーロッパでは、フランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなど7カ国共同で「ディスカバリー」と名付けられた治験プロジェクトが始まった。これまでほかの病気に用いられてきた治療薬の効果を確かめるのが目的だ。現在以下4種類の試験が行われている。
– ヒドロキシクロロキン(マラリア、自己免疫疾患の治療薬)
– ロピナヴィール/リトナヴィール(エイズ治療薬)
– ロピナヴィール/リトナヴィールとインターフェロン・ベータ(多発性硬化症の治療薬)の組みあわせ
– レムデシヴィル(エボラ出血熱の治療薬)
フランスでは800人の重症患者が対象となっており、最初の試験結果は4月末に出る予定だ。効果が示されない薬は却下され、直ちにほかの薬の試験が始まる。
フランス国内、感染予防の治験プロジェクト
一方、パリ公立病院組合はCOVID-19の感染を予防する治験プロジェクトPREP COVIDをスタートさせた。患者と密接に接触するために医療従事者が感染するケースはとても多い。パリ公立病院の中でも3600人以上の感染者が出ており、3人が死亡した。そのため予防薬を見つけることは重要な課題なのだ。対象はヒドロキシクロロキンとアジスロマイシンだ。後者は抗生物質で、ラウルト教授がヒドロキシクロロキンとの組み合わせでCOVIDS-19治療薬として勧めている。プロジェクトの協力者は900人で40日間投与したのちに、効果があればさらに両方の薬品を同時に投与する。
そのほか、少量の血液で抗体の有無を15分で確認できる検査キットをブルターニュ地方のNG Biotech社が開発し、現在有効性を確認中だ。抗体保持者が医療関係者であれば安心して感染者に接触できるだろうし、将来的には集団免疫ができているかの確認ができるかもしれない。だが新型ウイルスの免疫がどのくらい持続するのかはまだわからないし、現在進行中の感染拡大を防ぐ手立てにはならない。先行すべきは感染者の確認、隔離、治療であって、そのためにはまずPCR検査の拡大が必要だ。
わからないことだらけの新型ウイルスを前に途方に暮れてしまうが、そもそもウイルスそのものが奇妙な存在だ。小さな粒のウイルスは、呼吸も代謝もしないので生物ではない。しかし、ほかの生き物の細胞に入り込んで自己複製して生き残りを図るので、無生物でもなさそうだ。細胞を借りる宿主は人間でなくてもよい。COVID-19 は元はコウモリを宿主としていた。2003年に流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)もコウモリ、2012年に現れたMERS(中東呼吸器症候群)は、コウモリからヒトコブラクダに引っ越したあとに人間のところへきた。インフルエンザは鳥や豚、結核は牛が元の宿主だ。
ウイルスは動物の種の違いなどは気にも掛けず、細胞から細胞へ移動する。宿主を死に至らしめるようなウイルスはきっと恐ろしい形相で細胞に突撃してくるのだろうと想像してしまうが、実はそうではない。ウイルスの表面のタンパク質が宿主の細胞の特定のタンパク質と結合すると、細胞側の扉が開くのだ。つまり宿主が自分からウイルスを迎え入れてしまっている。病気になってしまうというのになぜ招き入れてしまうのか。
ウイルスは地球に生命が芽生えたばかりの頃からいたのだろうか。一説によれば、進化した高等生物の遺伝子の一部が外に飛び出したものだという。つまり私たちの一部だったともいえる。それにしても、この宿主からあの宿主へ、なぜふらふらと細胞と細胞の間を旅するのだろうか。この説によれば、一般的に生物が親から子へと遺伝させていく情報伝達の方向軸と違い、ウイルスは同時代の細胞の間を縦横無尽に行き来する。すると細胞同士は情報を伝達しあい、生物の進化が加速するというのだ。もしそうであれば、長い目で見ればありがたい存在だ。
しかし短い人生、できることならウイルスに命を奪われたくない。生物の種を超えて細胞間を行き来するウイルスに対抗するには、われわれ人間も国境などにこだわらず、人類が手に手を取り合うほかない。あの懐かしい日々、カフェのテラスで友人とワインを傾け、デモで権利を主張して練り歩く、そんな毎日を取り戻したいのだから。(仙)
https://digital.asahi.com/articles/ASN433CSLN3VUCVL033.html
生物学者 福岡伸一