パリから北に向かう電車に乗って1時間ほどすると、そこかしこに黒っぽい山が見えてくる。炭鉱から出た土や石を積んだ 「ボタ山 (terril テリ)」だ。不毛なものとばかり思っていたが、そうでもないらしい。炭鉱閉鎖後しばらくすると、コケが生え、虫やカエル、ウサギなどが生息するようになり、人工照明の光害のない山にやってきた鳥たちは遠くから種子をもたらし、この地方では見られなかった植物がボタ山に芽を吹いた。人が手を加えずに動植物が生態系を形成した山もあれば、人が種を蒔いたり植樹した山もあり、今ではワイン造りも行われている。ほかにも、遊歩道や頂上の展望台が整備されたり、ボタ山ランニング、傾斜を利用したスキーなど、レジャーに再活用されている。
19世紀フランスの産業革命、二度の大戦の軍需と戦後復興の原動力となった石炭。国をあげて石炭増産が謳われ、炭鉱労働者が英雄と讃えられた時代があった。北フランスの「Bassin minier」と呼ばれる炭鉱地域は、そうして2世紀半にわたって国の産業を支えた。この地方最後の炭鉱閉山から30年。今ではユネスコの世界遺産に登録された炭鉱跡地に、さまざまな形で新しい生命が息づいている。(六)
353の構成資産からなる、ユネスコ世界文化遺産。
Bassin minier du Nord-Pas-de-Calais とは?
ノール県とパ・ド・カレー県にまたがって広がる炭鉱地域 (バッサン・ミニエ Bassin minier) 。その歴史は1720年にさかのぼる。ベルギーではすでに石炭が採掘されており、フランス側でも探査を行ったところ発見された。
1757年フランス初の炭鉱会社「アンザン炭鉱会社」が設立され、ヴァランシエンヌ周辺で採掘が始まる。1842年にはランス近くオワニーでも発見され、新たな石炭鉱脈を求めて西へ西へと探査は進み、次々と会社が興った。最盛期の1947年はこの地域だけで22万2千人が炭鉱で働いた。しかしそれ以降、生産量は鉱夫数とともに減り、1990年にこの地方最後のオワニー炭鉱が閉山(フランス最後の閉山はロレーヌ地方の炭鉱で2004年)。
2012年6月ユネスコは、東西120km、面積4千haに広がる炭鉱地域(地図の黄色い部分)を世界文化遺産に登録。登録のカテゴリーは「有機的に進化してきた文化的景観(Paysage culturel évolutif vivant)」。実際、この地方は石炭採掘前は農耕地で平地だったが、採掘でボタ山が築かれ、鉄塔が建てられるなどして景観が変わった。廃坑から久しい今も景観は進化している。驚くのは、構成資産が353と数多いこと。ボタ山は約300あるうち51、炭鉱井戸跡17、鉄塔21、炭鉱運搬の鉄道線路54kmと3駅。炭鉱会社の社屋3、124ヵ所の炭鉱団地とそのために建てられた学校、教会、催事場、診療所、運動場などを総合した全体の登録なのだ。深い井戸では地下1000メートルまで潜ったという炭鉱労働者たちの勇気や連帯の精神なども、登録こそされていないがこの地方で培われた気質であり遺産だろう。
Haillicourt : Terril Viticole
ボタ山に、生命が息づく。
傾斜80度。よろめいたが最後、下まで転がり落ちるのは確実だ。パリの真北250km、アイリクールのボタ山は高さ136m。その中腹100mあたりの南斜面に3千本のブドウの木が植えられている。ベルギー国境も近いビールの郷だが、急斜面で水はけがよく、養分に乏しい土、風が強く乾燥するため病気も発生しにくいなど、ブドウ栽培に適した環境に目をつけた醸造家が10年前にブドウを植えた。畑からは村の教会、炭鉱住宅が見える。畑から数メートル離れたところでは、地面の穴からふんわりと白い湯気が立ちのぼっている。石炭くずが自然発火して燃焼しているのだそうだ。雨や雪が降るときも、湯気が発生するという。
アイリクール市職員でこのブドウ畑管理者のヨアンさんの祖父は、近くのマザンガルブ炭鉱で働いていた。「祖父は、『土の中の石炭を再利用すべき』と、ワイン造りにはむしろ反対。でも試飲して 「うまい」、となって見方を変えました」。同じく市役所で働くモルガンさんは 「ボタ山で遊ぶのは親に禁止されていたので、内緒で来ては小屋を作ったり、トカゲを捕まえたり…」。正面に見える双子のボタ山(Terrils jumeaux)には展望台がある。今は、住民が初日の出を眺めるために登る 「私たちのモン・フジ (富士山)なんですよ」と教えてくれた。
ブドウの品種 「シャルドネCharodonnay」と、炭を意味する 「シャルボンCharbon」 をかけて 「シャルボネCharbonnay」。黄金色でとろみある白ワインは、果実香がありながら、ほのかにボタ山の焦げるような、硫黄の匂いがするという。7年前から収穫、醸造を開始し昨年は800本を生産。今年は4月の霜で半減の見込みだから、なおさら入手が困難になりそうだ。
ド・ゴール大統領は1959年、ここアイリクール炭鉱を訪れ 「あなた方の職業は崇高で、おそらく最も勇気を要する職業。あなた方を讃えます」と炭鉱夫たちを鼓舞しながらも、石油、そして原子力へとエネルギー転換の舵をきった。60年代から閉山が続き、地方全体に石炭産業施設が残され、多くが解体された。事故や肺病がつきものだった炭鉱の過去を喚起させるボタ山も撤去派と、国の繁栄のために誇りを持って働いた地方の記憶を残したい保存派とに分かれた。ユネスコの文化遺産に51のボタ山が登録された今では緑化するばかりではなく、炭鉱地方のシンボル 「黒いボタ山」も残すべきだと意識が変わったという。(集)
ボタ山(terril)とは。
炭鉱井戸を掘る時に出た土や石、選別後の石炭くずの集積地。ここバッサン・ミニエ地域(上の囲み記事参照)だけで現在200ほどあり、今では各山の生態系を観測し保護、または活用を計画するなどの管理が行われている。欧州最高峰はランス近くのLoos-en-Gohelleで186m、欧州最長はPinchonvallesで1.750km。
詳しくは missionbassinminier.org
ボタ山スキー場 Base Loisinord – Noeux-Les-Mines
Bruay-la-Buissière : Cité des Électriciens
炭鉱住宅「コロン」に泊まる。
長屋スタイルの炭鉱住宅を 「コロンcoron」といい、団地は 「Cité シテ」。ここシテ・デゼレクトリシアン団地 Cité des électriciens は1856年から1861年にかけて造られた。
建設当時、団地には9棟の2階建てコロン(42戸)、共同井戸2つ、パンを焼く窯2つ、ウサギや鶏の小屋などがあった。今は建設当時の住宅を複数合体させた快適な住宅10戸が公営住宅となっていて、そこの住人が団地内の庭の手入れをする。この庭は炭鉱団地の重要な構成要素だという。炭鉱が開かれた19世紀、周辺には坑夫などおらず日雇い農夫を雇ったが、生産性を上げるためには彼らが定住することが必要で、そのために会社は農作業ができる庭つきの住宅を提供したからだ。2007年にコメディー映画 『Bienvenue chez les Ch’tis』の撮影が行われたり、仏歴史的建造物とユネスコ世界遺産に登録されたことなどが転機となり、ほぼ全体が再現され2019年にオープン。アーティストのレジデンス制度があり、長屋2棟とcarinと呼ばれる小屋が、洒落たインテリアの宿泊所になっている。コンセプトは観光客、住人、アーティスト…社会の様々な人が出会う場所だ。
「昔の炭鉱住宅の写真は多くがモノクロなので暗いイメージを抱きがちですが、実際のコロンはカラフルでした」とディレクターのイザベル・モシャンさん。まずはレンガの赤茶。この地方の建材といえばレンガだが、この団地のものは手作業で成型されたもので微妙な不揃いの風情がある。コロンを改修した展覧会場には、入居した住人が貼り替えた壁紙の幾多の層が残されている。なかには懐かしい模様もある。
「産業革命は技術的な進歩だけではありません。労働者階級という新たな、社会の大多数を占める層を産み出した社会の変化でもあったのです」。その労働者の暮らしをどうするかは社会全体の大きな課題だった。このシテは、フランスにおける炭鉱住宅の誕生 (1826年)とその変遷、人々の暮らし、移民、労働闘争など社会的側面に焦点を当てた展示を行う秀逸のミュージアムでもある。
かつての住民の証言を集め、当時植えられていた品種を果樹園に植えた。畑の土の分析からはポーランドで食べられる品種のキャベツが栽培されていたことが分かった。不足する労働力を補完するため、この地方は1919年から多くのポーランド人労働者を迎えた。土の記憶だ。
石炭のニーズが高まるにつれ炭鉱会社間の競争も増し、よい働き手を得ようと各会社は住宅を充実させた。団地の長屋は一軒家になった。1900年パリ万博で、イギリスの近代都市計画で知られるエベネザー・ハワードが 「田園都市(Garden city)」を発表すると、フランスでもカーブを帯びた道沿いに庭の広い一軒家が並ぶ団地が現れた。スポーツ施設、診療所、学校、教会なども建てられ、「ゆりかごから墓場まで」会社が保障しつつ、人々を管理した。
1947年、炭鉱が国有化される。鉱夫の労働協約 「statut des mineurs」が締結され、労働者と家族には終身住宅が保証されるようになるなど福利厚生が充実、生活が向上した。炭鉱住宅は1961年には11万6千戸に達するが、現存するのは6万戸ほどだという。
▶︎ 5/19(水)に再開。常設展見学 : 6€/4€。
火休、11h – 18h。展覧会場は14h-18h。日曜15h (第一日曜は除く)に1h30の団地内ツアー:8€/5€。4人からグループ割引あり。ブティック営業は水木金12h-17h。
▶︎イベントも多数予定されているが変更もあるので要確認。
Cité des Electriciens : Rue Franklin
62700 Bruay-la-Buissière Tel : 03.2101.9420
www.citedeselectriciens.fr
▶︎ Gîtes 宿泊所
は2人用から8人用まで5タイプ。
一泊60€〜265€ (ハイシーズン料金)。
宿泊日数が多くなるほど、一泊の料金は割安に。
他にも行きたい!バッサン・ミニエ名所
ヴァランシエンヌ Valenciennes 周辺
1884年3月、ヴァランシエンヌ西北に広がるアンザン炭鉱で労働者がストを始めると、エミール・ゾラは取材に赴き、翌年、大作 『ジェルミナル』を書き上げた。クロード・ベリ監督が1993年、巨額を投じて同作品を映画化した際、ロケ地に選んだのもこの炭鉱跡だった。1989年に閉鎖され解体寸前の施設が救われ、1995年から撮影所に。最新設備で映画、TVスタジオ収録、映像作品を完成できる施設だ。ヴァランシエンヌ大学の映像技術研究所の活動拠点でもある。実際に炭鉱で働いた人たちに中を案内してもらえる日もある。
● Arenberg Creative Mine/Site minier Wallers-Arenberg
Rue Michel Rondet 59135 Wallers-Arenberg
ドゥエ Douai 周辺
71年に閉められた炭鉱が1984年にミュージアムとして再出発。制御室、石炭選別室、ランプ室(会社には各炭鉱夫のID番号がふられたランプがあり、労働者はそれを受け取って出勤の印とした)、脱いだ服を天井に吊るす更衣室 (写真)、ボイラー室などの設備に加え、再現された450mの坑道が見られ、採掘技術の変遷をたどることができる。ここは同時に写真50万点や映像600点を所蔵するフランス最大の炭鉱アーカイヴセンターでもある。
● Centre Historique Minier Lewarde
Fosse Delloye, Rue d’Erchin 59287 Lewarde
Tél : 03 27 95 82 82 www.chm-lewarde.com
ランス Lens 周辺
2012年にオープンしたルーヴル美術館・ランス分館はかつてのランス炭鉱の第9番竪坑があった場所に建てられた。ランス大学の建物はその炭鉱会社の社屋跡。
● Louvre-Lens
99 rue Paul Bert 62300 Lens www.louvrelens.fr
隣町リエヴァンの Saint-Amé 教会には、1974年の坑内ガス爆発事故の42人の犠牲者に捧げられたステンドグラスがある。2013年、炭鉱労働者の守護聖人である聖バルブの日、12月4日に除幕式が行われた。
● Eglise Saint-Amé
7 rue Voltaire 62800 LIEVIN https://tourisme-lenslievin.fr/fiche/quartier-saint-ame/
欧州一高いLoos-en-Gohelle(186m)のボタ山も、ルーヴル分館からなら近い。Loos-en-GohelleのRue léon Blumにある駐車場から、”la base du 11/19(炭坑ナンバー)”と呼ばれる場所から登れ、頂上まで登って降りるまでに1時間ほどかかる。
●写真で詳しく説明されているページ
www.plusaunord.com/jai-gravi-lun-des-terrils-jumeaux-du-11-19/
UPERNOIR
バッサン・ミニエの炭鉱跡で、5/28から6/27まで一連のイベントが予定されている。ボタ山登り、いにしえの炭鉱鉄道の路線をたどるサイクリング、ボタ山ワイナリー見学ほか、ウォーキングなど多数。
www.upernoir.fr