ル・モンド紙電子版5月23日付で、「フランスはどのようにして旧植民地ハイチに賠償金を払わせたか?」と題した記事が掲載された。ニューヨーク・タイムズ紙の記者が調査し、20日付同紙に掲載した記事をまとめたもので、フランスやアメリカがハイチを食い物にした、一般にはあまり知られていない経緯がたどられている(ルモンド記事フランス語版はこちら)。
植民地支配からいち早く独立した「ハイチ」
ハイチはカリブ海のイスパニョーラ島の西側3分の1を占める国で、人口1140万人、1人当たりの国民所得は1250米ドル(2020年)で世界の最貧国35位あたりに位置する。1697年に仏領となり、「サン=ドマング」と呼ばれた。フランスは黒人奴隷を連れてきて砂糖きびのプランテーションを発達させたが、黒人奴隷やムラート(白人と黒人の混血自由人)が蜂起して1804年に独立を勝ち取った。世界で初めての黒人による共和国、中南米最初の独立国「ハイチ」が誕生した。
CIC銀行と、独立の「賠償金」。
ところが、1825年、フランス国王シャルル10世の使節が軍艦を率いてハイチの首都ポルトー・プランスの港にやってきて、独立戦争時にフランス系植民者から接収した農園や奴隷などに対する「賠償金」を払わなければ宣戦布告すると脅して承諾させた。その賠償金額は1億5000万フラン(金貨)!
独立まもない小国に払えるはずもなく、フランスは1回目の支払いをフランスの銀行から借りて払うよう強要。当然利子もつく。後にやや減額されたが、20世紀半ばまでに支払われた賠償金総額は、現在の価値に換算して5億2500万€。しかも、フランスは1880年に仏商工銀行(CIC)にハイチ国立銀行を設立させ、ハイチの国庫を支配した。CICはハイチ政府に借金させ、手数料と利子を吸い上げてフランスの投資家に何千万フランも儲けさせたという。
20世紀初め時点で、ハイチ政府の税収の84%が債務の支払いに回されていた。1910年からは米ナショナル・シティ・バンクがハイチ国立銀行に40%投資するなど米国の影響が拡大。米国のカリブ海支配政策により、1915年には米軍がハイチを占領し、34年まで米傀儡政権の軍政を敷いた。その間も、ハイチの国内総生産の25%はナショナル・シティ・バンクへの債務返済に充てられた。米軍が引き上げてからも米国が支援する独裁政権は続き、1957年までハイチの欧米銀行への債務は続き、債務の一部はハイチの政府指導者や高官の手に渡る……。
2003年に大統領になったジャン=ベルトラン・アリスティッドは独立時の賠償金の返還として、216億8513万5571ドルをフランスに求めた(NYタイムズ紙は、長年にわたるハイチの賠償金支払いによる損害に見合う額と分析)。すると、04年に仏米が裏で糸を引いたとされるクーデターでアリスティッド大統領は失脚する。米国の軍事介入、独裁政権、クーデター、そして2021年には大統領が暗殺され、政治的混乱は今も続いている。
130年にわたる支払いと政情不安定
130年にわたる莫大な賠償金の支払いによって自国の経済の育成を妨げられた上、汚職、地震やハリケーンによる度重なる自然災害、軍事独裁政権によりハイチは世界の最貧国の地位から抜け出せない。経済学者トマ・ピケティ氏が「借金によるネオ植民地主義」と呼ぶように、植民地支配は独立で終わってはいなかったのだ。しかし、ベルギーの南北問題政治学者、フレデリック・トマ氏はル・モンド紙のインタヴューのなかで、独立後も実質的な奴隷制度を維持し、旧宗主国と結託して国民を搾取してきたハイチの特権階級も批判する。同時に、その特権階級を温存しつつ、経済発展のための投資や援助を続ける欧米のやり方や姿勢を見直す必要があるとしている。ハイチの例は、アフリカ諸国の他の例とともに、植民地主義は今も終わっていないことを証明している。(し)