S子さん(73)は東京で育ち学芸大に入る。68年夏、来仏。N氏は65年に来仏。親同士が知り合いの二人はパリで会い、結婚し長女が生まれ、2年半後に長男、次に双子の息子が誕生。N氏はオービュッソン織の技術を学び、国際的に高名な前衛タペストリー作家となる。97年、日本での個展後57歳で倒れる。S子さんは54歳だった。子供たちは27、25、双子22歳。
画家として制作を始めようとしていた時期に次々に4人の子供を持たれて妻・母親として忙殺され、フラストレーションはありました?
子供は1人くらいならと思っていましたが、3番目が双子の息子と分ったときは動転し、目が回るほどの毎日でした。夫は日系企業で職が見つかったものの、子育てを助けるなどとても期待できません。双子が7歳になるまでは絵を描くのを一時停止するほかありませんでした。
ご主人が世に出るきっかけとなったのは?
79年に子供2人を連れて日本の画廊界を回りました。夫が創造の世界にいる妻は、自分の制作よりも夫の道を切り開くしかありません。
20代で父親を亡くしたお子さんたちは、それぞれどのような道を選びましたか?
長女は造形作家、長男はバイトをしながら母親と暮らします。双子の一人は仏女性とアクロバット・パフォーマンスで世界中で活躍、もう一人は現代木工作家で伊女性との間に双子の娘がいます。彼らの幼児・少年時代からヴァンセンヌ近くの庭付きの一軒家が借りられたので、子育てにも恵まれたとはいえ、我ながら単純によくやったと思い返します。4人の子供が小学生のとき、ぞろぞろと日本人児童が登校するのを見て近所の人たちはもの珍しげでした。賑やかな家庭はもちろん夫の存在なしには成り立たなかったのですが、人生の運命と不思議さを感じずにはいられません。彼は死を予感していたのか、亡くなる前に「きみは僕がいなくなってもやっていけるよ」と言ったのが忘れられません。彼が他界した後、大規模な回顧展を実現できたのと、立派な作品集を出版できたことで彼の生涯が閉じられたと思います。私は現在もアトリエに通い、展覧会にも出品しています。以前のほとばしるようなエネルギーの衰えを感じながらも、創造力は磨き続けたいと思います。