『脂肪の塊』(1880年)はモーパッサンが30歳の時に発表した小説。師匠にあたるフロベールも手放しで称賛したこの作品からは、モーパッサンの感性がしっかりと感じられる。自分が生まれ育ったノルマンディーの風景やノルマンディー人のこと、ブルジョワのこと、女性のこと、祖国のこと、戦争のこと、政治のこと、どれをとっても、一見美しい描写の裏に、作家の心のうちに潜んでいる激しい嫌悪感が見え隠れするのだ。
モーパッサンの小説はどれをとっても読者をアッと驚かせる結末が用意されているけれど、『脂肪の塊』の終わり方ほど残酷なものは他にないかもしれない。前半では人がよくて勇ましい美女として描かれる娼婦の「脂肪の塊」は、最後、まるで小さな女の子のように人前でぽろぽろと涙を流すことになる。その涙の原因は、実際に小説を読めば分かる通り、一見「立派な人々」の、人間性のかけらもない獣のようなふるまいだ。
娼婦の前で人々が口にする薄くスライスされた子牛の冷肉、「鳶色(とびいろ)の兎肉」、「新聞にくるんであったグリュイエールチーズの真四角のみごとなかけら」、「環(わ)になった大きな腸詰」などは、それらがいかにも美味しそうなだけに始末が悪い。ゆで卵を食べている男の髯からは、おぞましくも「星屑(ほしくず)のように」黄身がぶら下がっている。(水野亮訳)
『脂肪の塊』が発表された同じ年に、モーパッサンはフロベールへの手紙にこう綴っている。「僕は宗教に大いに引きつけられています。なぜなら、人類の数々の愚かさの中において、宗教はもっとも大きく、もっとも多様で、もっとも深遠のように思えるからです」。その文面からも、30歳にして人類にすっかり失望している作家の本心が吐露されている。(さ)