紀元前12世紀頃、セム系ペリシテ人が住み着いていたのでローマ人が “パレスチナ” (ペリシテ人の国)と呼び、紀元7世紀にイスラム教の聖地となり、1516年から1917年までオスマン・トルコ領だった旧パレスチナ。一方、ユダヤ人は紀元70年ローマ軍によるエルサレムの神殿破壊以来、国外離散 (ディアスポラ) 民族となる。 第1次大戦中、英国はドイツ同盟国だったオスマン・トルコに打撃を与えるためメッカの太守フセインに “アラブの反乱” (先頭にアラビアのローレンス)を起こさせ、代償にアラブ国家の樹立を約束した。 19世紀末に本格化したユダヤ国家建設運動、シオニズムに目を向けた英国が、第1次大戦の戦費調達にユダヤ系財閥の協力を得ようとシオニズム支援の約束をしたのがバルフォア宣言(1917)。さらにシリアとパレスチナの分割をフランスと密約。英国のこうした”3枚舌外交”は、パレスチナが1921年から48年まで英国委任統治下に置かれた背景に伏線として浮かび上がってくる。 ナチスによるユダヤ人迫害への国際世論の同情のなかで、47年国連はアラブ国家とイスラエル国家を樹立するためパレスチナ分割を決議、アラブ諸国はこの案をもちろん拒否した。以来パレスチナをめぐる中東戦争は第1次(48)、第2次(56)、第3次(67)、第4次(73)と戦争ごとにイスラエルの占領・入植地が拡大し(1880年 : 約24000人→現在のイスラエル人口600万人)、同時にパレスチナ難民が増大していった。 祖先の土地を奪われたパレスチナ人難民は約350万人(46%は15歳未満)にのぼる。 第3次戦争以来イスラエル領となったヨルダン川西岸にはユダヤ人入植地が130カ所に点在する。イ軍隊に警備された入植地に阻まれまだらに散らばるパレスチナ自治区8市と、地中海に面したガザ地区の2/3を占めるパレスチナ人難民キャンプ。 パレスチナ人の人権を無視したこうした日常の中で、3宗教が分かつエルサレム旧市街、イスラム教アルアクサ・モスクのある神殿の丘に、9月28日、厚顔にもイスラエルのタカ派リクード党シャロン党首が訪れたのはアラブ人にとって挑発でしかなかった。以来、投石で対抗するインティファーダ(住民蜂起)とイスラエル治安部隊との衝突が続き、1カ月で約150人死亡、約4000人の負傷者を出している。 親の代から難民生活しか知らない10代、 20代のパレスチナの若者は、少年にも容赦なく発砲するイスラエル軍隊に対し投石で自爆テロで対抗する。そして殉教者になることで、50年来の夢、叶えられないパレスチナの独立に己のアイデンティティを重ね合わせているといえまいか。 そこには、イスラエルへのパレスチナ民衆の怨念が波打っている。イスラエル占領地撤退と交換にパレスチナ側の暴力停止といった、毎回アラファト議長とイスラエル歴代首相の約束ごとに終わる和平交渉の”和平”という言葉自体が精彩を失ってきているといえる。(君) |
パレスチナ人難民 (1948~67) 100万人 レバノンへ流出 35万人 シリアへ流出 95万人 ヨルダン川西岸・ガザ(100万人 イスラエル国内アラブ人) 200万人 西岸・東エルサレム(’98) 110万人 ガザ地区(’98) |