〈欠落〉への異議申し立て
日高六郎
ほとんど同時に街頭にひろがったフランスの〈五月〉と日本の〈五月〉。私は、日本では参加者、フランスでは目撃者だった。
共通の背景はベトナム戦争。もうひとつ、社会の管理の網の目が、じわじわと自分を追い込んでくる実感。社会には不正があり、個人には自由の喪失感があった。
たとえば日本のばあい。日本大学*のトップは、学生の授業料から二〇億円を流用していたことがわかった。そして一方では学生の集会を禁止した。私のような、穏和な(!)人間の講演会さえ許されなかった。
学生は一挙に立ちあがり、一九六八年五月、大学をバリケード封鎖する。周辺の商店の好意のまなざしのなかで。
その〈五月〉から三〇年の五月。あれはなんだったのだろう。
無垢の正義?完璧な自由?それらは、見ることも手にすることも不可能だ。しかし不正は見える。自由の抑圧は見える。
ユートピアを考えたのではない。何かが欠けている。大きな〈欠落〉。その穴ぼこに向かって、若者たちの怒りが爆発した。
それが〈五月〉だった。
日本では社会的な成果は少なかった。秩序を維持する日本国家の能力はスゴイ。運動がわの失敗もあった。果実は社会的というより個人的に残った。個人の意味を考えなおす。それも〈五月〉である。
フランスでは、〈五月〉はひとまずは残った。若者の政治参加は続く。七一年のエピネ会議から八一年のミッテランの勝利まで。そのときル・モンドは、若者、女性、知識人に支えられて、と書いたはずだ。
さて〈五月〉はそれで終わったか。たしかに直接の影響は終わった。しかし、その後のタイの学生反乱、フィリピンや韓国の反独裁運動、北京の天安門事件、南アフリカのマンデラ解放、そしてベルリンの壁とソ連崩壊・・・これらの二〇世紀後半の民衆の動きは、管理への抵抗、自由の要求において、〈五月〉とつながっている。
それらは、二〇世紀前半の社会革命とはちがう。たとえばソヴィエト革命は、正義と自由と平等の王国の設計図を持っていた。あとで幻想とわかったとしても。
〈五月〉は未来のたしかな設計図を持っていなかった。しかし〈欠落〉への異議申し立ては、新しい可能性を暗示する。そしてパリの〈五月〉では、異議申し立てへの異議申し立ても活発だった。あらゆる画一性からの解放!
いま、その〈五月〉は生きているのか?
*日本大学は、日本で最大の学生数を持つ。当時ここでは学生運動は起こりっこないと言われていた。