映画『勝手にしやがれ』の邦題の名付け親で、現在もジャーナリストとして健筆をふるう秦早穂子氏の自伝的小説。ヌーヴェル・ヴァーグの息吹を間近で感じた数少ない日本人による第一級の映画資料でもある。
「舟子」こと幼少期の「私」と、20代で単身パリに渡り、映画業界に身を置く「私」が、交互に顔をのぞかせる。舞台装置には家族があり、戦争があり、生と死があり、そしてまばゆいフランス映画がある。作者の回想は時間軸を自在に超えるから、小説の構成はシンプルではない。だが、自転車のペダルは最初の一歩が重くても軽快に走り出すように、やがてページを繰る手が止まらなくなる。文章には余韻があっても、感傷はない。シンプルに胸を突く言葉の数々が、映画のワンシーンのようにイメージを喚起する。「ここはモノクロでアイリス・アウト(絞り状に画面を閉じる技法)がいいかな」などと、映画好きなら頭の中で、勝手に演出をはじめそうだ。
良作であることは、今も昔も配給の絶対条件ではない。ゴダールの『勝手にしやがれ』は配給したが、ロメールの『獅子座』は配給しにくいと感じたエピソードなど、商売である映画の難しさについて読者に一考を促す。とはいえ「先見の明」というよりは「本質を見抜く力」で、映画紹介に尽力を注ぐのが秦氏。舟子時代から筋金入りの「本物を希求する心」に、共感と憧れを覚える。
オヴニー読者は、ふいに登場するパリの通り名も気になるかも。私はゴダール&アンナ・カリーナの家を探しに行きたい。(瑞)