レイモン・ドパルドンは、フランス全国の市・町・村長室の壁に掲げられる、エリゼ宮の庭を背景にしたフランソワ・オランド大統領の公式写真を撮った写真家・映画作家。テレビで、「背景の芝生は牧草地みたいです」と語っていたのが印象的だった。
ドパルドンは、1942年 ローヌ県の農家で生まれたという原点に絶えず立ち返る。2005年にドキュメンタリー『Profils paysans』の二部『Le Quotidien』が封切られた。そこでは、忘れられてきている農民の日常が、淡々と、そして好奇心を失うことなくとらえられている。彼らと過ごした長い時間によって、ドパルドンが部外者ではなく彼らの生活の内にいることが感じられる。そして年老いた農民たちへの慎み深い敬意。ドパルドンは14、5歳くらいの時に、両親、広がる畑、納屋に上がる石の階段、農具などを二眼レフで撮っているのだが、そこには 内気だけれどすでに確かな観察眼があって、驚かされる。
写真熱にとりつかれたドパルドンは1958年にパリにやってきて、報道写真家ルイ・フーシュランのアシスタントになる。1960年、18歳のドパルドンはサハラ砂漠でのルポを依頼される。その後、アルジェリア独立戦争やベトナム戦争をフォロー。1966年には写真家ジル・カロンと写真エージェンシー〈ガンマ〉を創立。1977 年には、ヴェネチアに近い島にあるサン・クレメンテ精神病院の患者たちを撮る。1978年にはチャドへ。同年〈マグナム・フォト〉に移り、翌年アフガニスタン紛争をルポ。
ドキュメンタリー作家としては1994年の『Délits flagrants』と2004年の『10e chambre, instants d’audience』が傑作だ。前者では軽犯罪の容疑者と国選弁護士の対話が、後者では軽罪裁判所での裁判の様子が、思い入れを拒否する動きのないカメラで撮影されていて、逆に心をつかれてしまう。「ルポで常に私の興味を引くのは、一つの最適な撮影ポイントを見つけることだ。二つは決してない。一つの最適なポイントしかないのです」
1996年ドパルドンはアフリカに戻り、南アからエジプトまで縦断し、それは『Afriques, comment ça va avec la douleur?』という映画作品に結実する。民俗映画作家ジャン・ルーシュは「ガーナのことわざに『白人は知っていることしか見ない』というのがあるが、ドパルドンは知っていないことを見ている」と賛辞を贈った。この旅は彼の名文と写真でつづられる『En Afrique』という一冊の本になる。「南から北まで旅してアフリカ人たちに共通点があることが見えてくる。それは困難なことに対する慎み深さだ。(…)大きな苦痛を語る時の慎み深さ」と彼は書いているが、この慎み深さは、彼が撮り続けるフランスの農民たちも持っているものなのだろう。
妻であり、良き協力者であるクロディーヌ・ヌガレと一緒に撮った『Journal de France』が封切られた。レイモン・ドパルドンの人と作品を知るのに最適な作品だ。(真)