アルジェリア独立戦争さなかの1961年10月5日、モーリス・パポン=パリ警視総監は、夜間外出禁止令を出す。それにもかかわらずアルジェリア民族解放戦線FLNは、アルジェリア人に向けて、10月17日夜にエトワール広場、グラン・ブールヴァール、サンミシェル広場などで独立要求のデモを行うことを呼びかける。それに応じて、主にジュヌヴィリエやナンテールなどの郊外から、家族連れも含めて集まってきた多数のアルジェリア人に、警官が情け容赦なく襲いかかる。ヌイイ橋やサンミシェル橋からアルジェリア人がセーヌ川に投げ捨てられる。検挙されたアルジェリア人は、RATPのバスに押し込まれ、クーベルタン競技場や各区の警察署に送られる。女性や子供は特別施設に収容される。政府の公式発表では当日のアルジェリア人の死者は3人のみ。ところが、パリ市の死体置き場の記録などから判断すると38人から48人というのが正しい数字のようだ。歴史学者バンジャマン・ストラによると、この日の後にも多数のアルジェリア人が検挙されていて、12月までに300人は虐殺されたとする。
この犯罪をフランス政府は今だに認めていないが、この悲劇から40年経った2001年10月17日、ドラノエ=パリ市長の勇断でサンミシェル橋たもとに「静かなデモ行進が流血の弾圧を受けた際に殺された、多数のアルジェリア人をしのんで」と記された慰霊プレートが取り付けられた。
今年の10月17日はちょうど50年目。サンミシェル橋にアルジェリア大使、ドラノエ市長ほか数百人が集まった。またヌイイ橋での追悼集会はヌイイ市長が拒否したため、ところをラ・デファンス広場に移して行われた。コロンブ市のサール市長は「歴史的に暗い時代だったとはいえ、歴史はみんなのものであり、〈1961年10月17日〉を認め、それを語る勇気を持とう。次の世代にこの事実を引き渡す勇気を持とう」と演説。
アルジェリアのドキュメンタリー作家ヤスミナ・アディの『Ici on noie les Alg?riens ここでアルジェリア人が溺れさせられた』もこの機会に封切られた。新公開の資料などをもとに真実に迫る。アルジェリア人たちのインタビューに耳を傾けたい。「(デモでは)結婚式に行くかのように、みんな、きちんとした身なりでひげもきれいに剃って、いい男ぶりだった」。「缶詰のイワシのごとくバスに詰め込まれた。そこで警官は誰をたたきのめすかを選んだのさ。帰れるのか帰れないのか、どこへ行くのか皆目わからなかった」。「私たちは地下に下ろされた。男たちはフレンヌ刑務所などに連れていかれる前に、セメントの壁やベンチを削ってメッセージを残そうとした」。「私は25歳で、私の夫は4人の子供を残したまま消えてしまった。50年間探したけれど、なんの手がかりもなし。セーヌ川、この川が男たちをとってしまった、食べてしまった…」(真)