1931年にパリ・ヴァンセンヌの森で開催された国際植民地博覧会を振り返るパネル展が、6月末からパリ4区のナポレオン兵舎(パリ市警察)とヴァンセンヌの森で開催中だ。森を散歩しつつパネルを見て歩きながら植民地に関するこれほど大規模な博覧会が開催されていたことに改めて驚きを覚えた。
800万人の入場者
ヨーロッパ諸国は16世紀からアメリカ大陸、アフリカ、アジアの植民地化を進めた。英国に次ぐ植民地帝国フランスは17世紀にアンティル諸島、北アメリカの一部、18世紀にはポリネシア、ニューカレドニア、19世紀になると西・中央アフリカ、北アフリカ、インドシナ、マダガスカルと次々に植民地を拡大した。この勢力拡大を受けて、1889年のパリ万博では植民地住民を 「見世物」として会場内に配し、植民地のエキゾティックな建物や産物を紹介するスペースが設置された。こうした植民地展覧会は人気を博し、19世紀末から第2次大戦前まで欧州諸国でしばしば開催された。フランスではリヨン、マルセイユ、4180万人の植民地住民を擁し仏帝国の絶頂期にあった1931年5月~11月のパリ国際植民地博は国内最大の規模だった。3300万枚の入場券が販売され、およそ800万人が入場したといわれる。
3年かけた工事でヴァンセンヌの森とその周辺の110haの会場に多数のパビリオンが建てられた。この機会に建設された植民地博物館 「ポルト・ドレ宮」(現移民史博物館)は、「植民地を文明化するフランス」の歴史や、植民地の産物、工芸品などを紹介。入口の金箔のアテナ女神像(今は隣接する広場にある)は「植民地に平和と富をもたらすフランス」を象徴していた。会場には、重工業、鉄道、自動車など仏産業の優秀さをアピールし、植民地における農業、林業、漁業などの事業を紹介する「本土セクション」、アンコールワットのレプリカや各植民地のパビリオンが並ぶ「植民地大通り」、仏軍やキリスト教布教を称えるパビリオンなどがあった。会場には鉄道が敷かれ、25分でざっと見て回ることができたほか、ラクダ、ロバ、ゾウなどの娯楽的乗り物もあった。旅行代理店の事務所では入場者を植民地発見の旅に誘った。
「人間動物園」との非難も
会場に展示されたのは植民地の珍しい産物(サトウキビ、コーヒー、ラム、バニラ、バナナ、ココナッツ、香辛料、米、鉱物、木材、ゴムなど)や工芸品、各植民地に特有の建築物だけではない。クメール人の踊り、マダガスカルの音楽、セネガル狙撃兵、モロッコの絨毯商人、ラクダ使い、アフリカの村の再現とその住民など、計2万5000人の現地人がスペクタクルを披露したり、現地の雰囲気を醸し出すエキストラとして配置された。ニューカレドニアのカナック人や赤道アフリカの現地民は「人食い人種」として紹介され、後に 「人間動物園」だと非難されている。ベルギー、イタリア、ポルトガル、オランダ、デンマーク、アメリカもパビリオン参加した。
開催中には、植民地帝国主義に反対する共産党系新聞 「リュマニテ」や労組、シュールレアリストなどが企画して植民地博に対抗する展覧会が開催され、植民地支配の犯罪、強制労働などの現実を訴えたが、入場者は5000人のみだった。当時の大多数のフランス人は、植民地支配によって繁栄する「偉大なるフランス」を称賛し、現地民を「文明化する」植民地主義の有益性の喧伝を鵜呑みにし、エキゾティシズムに酔ったのだろう。
植民地主義の利点を主張する政治家は今でもいるが、土地の接収、現地人の強制移住・労働、殺害も含む暴力、人種差別が公然と行われていた植民地支配の実態の研究や認識が近年進んでいる。だが、90年前の植民地博で強調されたような西洋文明を範とする歴史観は根強く残り、南北格差がいまだ縮まらない世界の現実はまだ続いている。(し)
Exposition : sur les traces de l’Exposition coloniale internationale de 1931
▶ Bois de Vincennes : Porte Dorée 12e (9/26迄)
*Porte Doréeからスタートし、ドメニル池の周囲
*2ヵ所のパネルは同じもの。31年植民地博の建物で今でも残っているのは移民史博物館とカメルーン・トーゴ館だった国際仏教学院(チベット寺院)2ヵ所のみ。