「奴隷制は反人道罪」トビラ法から20年
マクロン大統領は5月10日、上下両院議長や5人の閣僚とともに、パリ6区リュクサンブール公園内の奴隷の鎖をかたどったモニュメントの前で「奴隷貿易・奴隷制および奴隷制廃止の日」のための短いセレモニーを行った。同日、イダルゴ=パリ市長もパリ20区の公園の一角にトゥッサン・ルヴェルチュール*広場を新設し、お披露目のセレモニー。奴隷の子孫が多いマルチニーク、グアドループ、レユニオンなどの海外県をはじめ、本土の数都市でも記念式典が開かれた。
5月10日は、仏領ギアナ選出の国民議会議員だったトビラ元法相の提案により、奴隷貿易と奴隷制を反人道罪と規定し、その歴史研究の促進および学校での教育強化を謳った法律が国会で可決された日(2001年)。だが、法に謳われた奴隷制記念日が決まったのは2006年になってからだった。
ポルトガルやスペインが16世紀半ばまで独占していたアフリカ人奴隷貿易にオランダ、イギリスとともにフランスも参入し、マルチニック、グアドループ、サン・ドマング(現ハイチ)、北米の仏領ルイジアナなどのプランテーションへ奴隷を輸送した。
アフリカからアメリカ全大陸およびカリブ海の島々へ送られたアフリカ人は1200万人と言われる。そのうち400万人が仏植民地に送られ、ナント、ボルドー、ルーアンなどの港は奴隷と植民地産品の貿易で栄え、海運業者や貿易商、金融業者らに莫大な富をもたらし、資本主義経済の発展に貢献した。
フランス革命の平等原則により奴隷制は1794年に廃止されたものの、ナポレオンが1802年に復活する法律を発布し、同年、または1803年に実施。最終的に廃止されたのは1848年。しかし、その後もアフリカやアジアに拡大した仏植民地のプランテーションの労働力確保のためにアフリカ人やアジア人の強制移住・労働は続いた。
アルジェリア戦争、ルワンダ虐殺におけるフランスの責任の解明に取り組んだマクロン大統領だが、奴隷制記念日にはスピーチがなかったことにトビラ氏をはじめ海外県の住民たちは怒りを露わにした。トビラ法から20年たった今、奴隷貿易・奴隷制についての歴史教育を充実させるという条文は十分に実現されているとは言えない。
2020年9月の奴隷制記念基金の調査でも、海外県に比べて本土の普通高校ではあまり実施されていないとの結果が出た。フランスが奴隷制の歴史を自らのものとして受け入れることにはまだ抵抗があるのだと専門家は言う。フィガロ紙11日付に「中世から1300年にわたって続いたアラブ商人による黒人奴隷交易の犠牲者1700万人に対し、欧州諸国による大西洋奴隷貿易は300年弱しか続かず、犠牲者は1100万人」「アラブ=ムスリムによる奴隷貿易は隠蔽されている」という意見記事が掲載されたのを見ても、奴隷制や奴隷貿易に対する責任意識はまだ国民に根づいていないのかもしれない。
その「3世紀弱」の間に行われた大規模な奴隷貿易と奴隷制が欧州と北米の資本主義経済繁栄の重大な要因であり、現在も続く人種差別のもとになっていることを考慮すると、大西洋奴隷貿易とその奴隷制がもたらした影響は計り知れないのだが……。
5月7日には研究者グループが、奴隷解放にあたって、1825年と1849年に国から賠償金を支払われた奴隷所有者のリストをネット上で公開した。約1万人の所有者が当時の国内総生産の1.3%に当たる計1億2600万フラン(現在の価値で270億ユーロ)を受け取った。米国では奴隷の子孫への賠償を検討する委員会の設置がこの4月に可決され、欧州諸国の奴隷貿易の犠牲者への賠償問題も国連人権高等弁務官が昨年言及しており、実際に賠償を求めているアフリカの国もある。
フランスに対しても奴隷の子孫の団体が2005年から賠償を求めているが、仏政府は損害額が計算不能として拒否。英国ではロイド銀行などが奴隷貿易への加担について謝罪しているが、仏企業にはまだ例はない。こうした意識も今後変わっていって、賠償問題にも進展していくのだろうか?(し)
*仏植民地サン・ドマングの奴隷だったトゥッサン・ルヴェルチュールは同地の独立運動を指導し、1800年に憲法を制定して独立を宣言した。しかし、ナポレオンが軍隊を派遣し、ルヴェルチュールは捕えられて獄中死。独立運動は引き継がれ、1804年にサン・ドマングは独立してハイチとなった。
→ 2016年3月掲載「ボルドー、奴隷貿易の歴史をたずねて。」では、トゥッサン・ルヴェルチュールの足跡についても触れています。あわせてお読みください。