Kさんは1956年、東京生まれ。二人姉妹の長女。両親は貸しビル会社を経営し、何不自由なく育つ。東京の大学を出た後、幼稚園の教諭になり、幼児教育に打ち込むも、子供のバイリンガル教育に興味を持ち渡仏。84-85年ソルボンヌの文明講座に通い、パリの100歳近い高齢婦人の世話をしながら、彼女のアパルトマンに居住、そこで今のご主人と出会う。
彼と数年同棲生活を送り、結婚。彼はすでに大手の清掃会社の管理職に就いていましたが、パリ西郊外に庭付きの一軒家を購入した時、気がつけば私たちは30代半ば。子どもには恵まれませんでしたが、ナイジェリア生まれの彼も、遠くに故郷を持つ私も、二つの異なる国、異文化の中間に身を置いて暮らしています。
70年代以後、駐在員が増えるにつれて在仏日本人家族も増え、国際結婚、親がアーティストや商店経営者としてフランスに滞在し続けるケースが増えてきました。このような家庭でも、子供にはやはり日本人としてのアイデンティティを身に付けてほしいと願う家族は、家庭では二つの言語が混ざり合い、彼ら特有の言語環境になることもしばしば。私はパリで、子供たちに遊びながら日本語を教える仕事に携わっていますが、日仏双方の言語、文化のはざまで育つ彼らには、日本、フランスの枠にとらわれず各自のアイデンティティを見つけて欲しいと願っています。欧州の国々を移住する人たちにとって、その国の生活習慣や言語の切り替えは慣れと時間の問題といえましょうが、言葉が、単に話し・書き・読むだけでなく習慣や言葉が使われている環境も含むことを考えると、フランス語など西洋の言語と日中韓など異文化の言語習得には困難が伴います。パリで子供たちに日本語を教えるということは、子供たちが日本に興味を持つきっかけになる教材をどれだけ提供できるか、迷ったり悩んだりした家族をどれだけサポートできるか、ということだと思っています。
ここまで来て、90歳の母が大腿骨頸部骨折で入院している病院から手術の承諾をたずねる電話がありました。すぐに飛んで行きたくても飛行機は飛んでいません。どんなに便利な社会になっても、今回のように思わぬものにさえぎられる日々。再び日本との距離を感じる毎日です。