モーパッサンの小説『ベラミ』(1885年)の主人公デュロワは、ノルマンディー地方出身の庶民。花の都パリにやって来たとはいえ、その住みかは労働者などの低所得者用のみすぼらしいアパルトマンだった。「食物の匂いと便所の匂いとの混り合った重苦しい臭気、脂垢(あぶらあか)と古壁との澱(よど)んだ匂い、どんなに風を通してもこの住居から吹き払うことの出来ない臭気が、上から下まで家をみたしていた」。(杉 捷夫訳)
金持ち並みに清潔な住居を手に入れたいと願う青年の道を開くのは、その美男子ぶりに虜になった社交界の女たちだった。小説の冒頭では一杯のビールを払うお金にも不自由していたデュロワだったが、旧友のフォレスティエ宅で出会ったド・マレル夫人から招待を受けて「カフェ・リッシュ」で食事をすることになる。19世紀のパリには、オスマン知事によって整備された広々とした大通りに沿って立派な店構えのレストランが軒を並べていたが、「カフェ・リッシュ」はそんなレストランのひとつ。裕福なパリジャンたちは、そんなレストランのサロンを第二の我が家のように自在に使いこなしていた。
服の持ち合わせのないデュロワは、借り衣装でめかしこんでそのレストランに出かける。赤い色の壁、真っ白なテーブルクロス、銀の食器など、すべてがまるで舞台装置のよう。そんな装飾の中で彼らが堪能した食は、例えば「可愛く丸々としている」ベルギーのオスタンド産の牡蠣(カキ)。これは、「貝殻の中へ入れた小さな人間の耳にそっくりで、塩辛いボンボンといった格好で舌と口蓋の間でとろりと溶ける」。そして、「若い娘の肉のような」紅鮭。アスパラガスの上に乗った「柔らかい、ふわりとした」子羊のあばら。シャンペンに勢いづけられた享楽的な夜は、その後のデュロワの運命を示唆するかのようだ。(さ)