ル・コルビュジエのフィルミニ緑地区と、今日の地域開発。
リヨンから電車で1時間ほど、フィルミニの駅で降りて町の南西にある丘に登ると、背高のっぽの男がユニテ・ダビタシオンの壁の中で出迎えるように手を上げていた。ル・コルビュジエが数々の建造物の基準寸法としたモデュロール(Modulor*)のレリーフである。
「フィルミニ緑地区」。この人工都市の建設プロジェクトが立ち上がったのは1954年、フィルミニが炭鉱の町として栄えていた時代のこと。労働者の住宅不足を危惧し、市長で戦災復興大臣だったユージン・クロディウス・プチが友人のル・コルビュジエに依頼したもので、集合住宅、文化会館、競技場、プール、教会などから構成される。ル・コルビュジエは、集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」だけで1800枚もの図面を残したといわれ、巨匠の渾身の大作となるはずだった。
しかし、彼は町の完成を見ぬまま、1965年に海水浴中の事故で亡くなり、彼の構想は弟子たちに委ねられた。たとえばユニテ・ダビタシオンの最上階にある学校の窓を設計したのは、音楽家としても名高いクセナキスだったというし、サン・ピエール教会はル・コルビュジエの死後41年後、2006年にジョゼ・ウブルリーが完成させた。
住宅事情の悪かった時代に安価で広く清潔な公団住宅。床暖房や、浴室にはまだ高嶺の花だったバスタブまであった。子供たちはエレベーターで最上階の遊び心にあふれた学校に通う。家のすぐ近くに広い競技場や劇場や図書館の入った文化会館もある。煤けた炭鉱の町に理想郷が出現した。フェルミニの人たちは親しみをこめてこの地区を「ル・コービュ」という略称で呼ぶ。今住んでいる人も、かつて住んでいた人も嬉しそうにこの「垂直の村」での生活を語る。
ちょうど文化財の日にあたり、住人たちが自分たちのアパートを一般に公開しているというので見せてもらった。
『アテネ憲章』(*次頁にコラム)の言葉が刻まれたエレベーターで階を昇ると、RUE (通り)と呼ばれる長い廊下が建物を貫いている。この建物の414戸のアパートはすべてL字型の2階立てになっており、このRUEを軸にするように上下に組み合わされている。赤や青、黄色といった原色のドアを開けると、東に面した5メートル近いガラス張りの側面から差し込む日光がまぶしい。緑の中に ル・コルビュジエとその弟子たちの建造物が一望できる。
ル・コルビュジエが「住宅は住むための機械である」と説き、機能性を重視したのは、スイスの時計職人の子として生まれ、建築学校や大学の工学部ではなく、美術学校で時計の装飾技術を学んだ経歴にあるのかもしれない。時計は機械の精巧さと装飾の美しさがせめぎ合う芸術だ。美しく作りたいから歯車を減らす、などということは許されない。いくら精巧でも格好が悪くては売れない。
都市も然りだ。地形やライフラインや住人の生活を無理にゆがめることはできない。町の設計を依頼したフィルミニ市長も元は家具職人だった。ふたりの理想郷が今も人々に愛されているのは、使う人間の実用性を重んじた彼らの職人気質の賜物といえるのかもしれない。
しかし、ル・コルビュジエの都市工学の手法はその快適さや実用性とは裏腹に、トップダウン的な傾向や、とくに政治権力との関わり合いの上で批判を受けることになる。没後50年だった昨年刊行された伝記『Le Corbusier, un fascisme français』は、彼が活動的なファシストだったと指摘した。ドイツ占領下、彼はヴィシーに1年半も滞在し、ペタン政権の都市計画政策を担った。彼の祖国スイスのドキュメンタリーによると、ムッソリーニやスターリンといった独裁者にもみずからの都市工学を売り込んでいたという。
建築家が大掛かりな自分の作品を実現するために権力におもねるのは必要悪なのだろうか。(浩)