印象派を生み出したのは、市民階級の登場と鉄道の開通、そして、澄んだノルマンディーの光だった。
19世紀半ばの第二帝政期に始まるオスマンの都市改造は、パリの街を大きく一変させた。産業革命と資本主義の急速な発展が、消費の拡大と優雅な生活習慣を持つ新興市民階級を生み出し、オペラ座を始めとする劇場や娯楽施設、パサージュなどの商店街など、王政時代には見られなかった「近代都市パリ」を出現させた。印象派の画家たちの多くも、こうした新しい市民階級の出身者だった。新しい都市空間に登場した巨大な駅舎とそこを発着する鉄道は、とくに目的のない愉しみのための旅、それまではなかった「余暇」という時間の過ごし方を普及させる。
1847年、パリ、サン・ラザール駅からルーアンを経てル・アーブルへ至る鉄道が開通します。モネの大聖堂の連作で知られるルーアンは、ノルマンディーの中心都市だし、モネがブーダンと出会い、後に印象派の名のもととなる『印象、日の出』を描いたル・アーヴルは、セーヌ河口のフランス第2の港町です。この鉄道は、人の行き来とともに米英などからの輸入品や海産物をパリに運ぶ大動脈だった。
サン・ラザール駅からサンジェルマン・アン・レイへ、そしてアルジャントゥイユへと伸びるパリ郊外の路線が1851年に開通し、パリ市民が気軽に日帰りの行楽を楽しむ流行路線になった。モネやルノワール、バジールたちが描いた、シャトゥのボート遊びや河畔のレストランの情景、アルジャントゥイユのヨットレース風景は、こうしたレジャーのようすを伝えるものです。
さらに1863年にはルーアンからトルーヴィル=ドーヴィルへの路線も開通して、ノルマンディー海岸のリゾート地へも楽に行けるようになる。海水浴地としてのノルマンディー海岸は、19世紀初頭にまずイギリス人の間で人気となり、それがフランスの上流階級へと広がったという。だから画家としてこの地を最初に訪れたのも、ターナーやホイッスラーなどイギリス人だった。
絵を学ぶためにパリに出ていたモネは、仲間のバジールやシスレーを誘って、よくノルマンディー海岸に来ていた。
オンフルールの町外れの高台にある「サン・シメオン農場」は、今は高級ホテルになっているけれど、当時はクールベやコロー、ドービニーなど印象派の先駆と言われる人々が逗留する〈画家の溜まり場宿〉だった。モネもこの宿にやって来て、先輩のブーダンやヨンキントと戸外で一緒に制作している。モネの代表作のひとつ『かささぎ』はここで制作したものです。
時に穏やかな、時に荒れ狂う海と空の変化、そして、トルーヴィルの遠浅の広い海岸や白波の砕けるエトルタの岩場の風景、漁民たちの姿と優雅な行楽客、落ち着いた木組みの家と新しいホテル、降り注ぐ光と揺れ動く木陰……ノルマンディーの持つこれらの要素は、画家たちにとっても大きな魅力だったのです。(稲)