優雅でシンプル、カヴロワ邸の明るい空間
リールの2つの駅の地下からトラムR線ルーベ行きで20分ほど、「ヴィラ・カヴロワ」で下車する。あいにく降り出した雨の中、まるで別荘地のようなお屋敷街を10分ほど歩くと、黄土色レンガの建物に着く。でも、この道路横の家は管理人棟。いわば城の門番小屋だけれど、わが家よりもずっと大きい。今は受付とブティックに使われています。
じつは4年前に、外観だけでも見たくてここを訪れたのだが、改装中だった母屋はうっそうと繁る木立に隠れて、無念にもこの棟しか見ることができなかった。
見違えるようにきれいになった管理棟でキップを買い、ガイドのタブレットを借りて、ようやくカヴロワ邸へ入ることができた。
30年代空間の再現。
長辺が60mもある長方形の建物のほぼ中央にある玄関で、靴にビニールのカバーを着ける。入り口の正面が、吹き抜けのサロン・ホール。テラス側は全面ガラス張りで、ゆるい斜面の庭園が広がっている。ル・ノートルが設計したヴェルサイユやソーの城のテラスと同様の手法です。
隣の大食堂に続いて子どもたちの食堂がある。そのころのブルジョワ階級の食事は、大人と子どもが別だったらしい。子どもの食堂にはテーブルや椅子が当時のままに置かれているのに、大食堂には無い。訊くと、当時のオリジナルが見つからないからだという。カヴロワ邸の改修では、建物も家具も当時の姿を忠実に再現するため、オリジナルまたは完全な復刻を原則にしていて、あいまいな代替品は排除しているのです。
総合作品。
この家は、すべての部屋に電話と電気時計が設置され、中央暖房のシステムや、キッチンから屋上庭園に料理を運ぶエレベータなど当時の最新設備が施されていた。さらにマレ・ステヴァンスは、5000㎡(現在は約半分)の敷地に広がる庭の設計、すべての部屋のインテリアと、それぞれの部屋に合わせた家具類もデザインしていて、この家全体が «総合作品» だと言っている。
2階の屋上庭園は、長い夏の夜の食事の場になり、ガラスで覆われた階段塔の上は展望台になっているし、どの部屋の窓からも庭園を見渡せるのもなかなかいい。
白黒の市松模様のタイルの床のキッチンは明るくて、気分よく料理ができそう。マレ・ステヴァンスは機能的なこと、そして衛生的なことも重視していた。キッチンに置かれたテーブルや料理を運ぶエレベータは、ジャン・プルーヴェ、子どもの食堂の彫刻や壁画はマーテル兄弟が制作するなど、信頼する友人たちの協力も得ています。
60㎡もの広さの夫妻の浴室はともかく、どの浴室もトイレも明るく快適そうだし、サロン・ホールを見下ろす2階の廊下や、それに続く保育園顔負けの遊戯室など、空間の演出もさすがです。壁や床、家具類の素材や色彩が部屋ごとの使う人や用途に合わせて変えてあるのも楽しい。
近代建築の城館。
20世紀後半、日本や中国が台頭するまでノール地方の繊維産業は隆盛をきわめていた。カヴロワの工場があったルーベはその中心地で«千本煙突の街»と呼ばれたという。当時のポール・カヴロワは5つの工場に700人の従業員を擁する事業家だったのです。
当初ここに伝統的なフランドル風の屋敷を建てるつもりだったカヴロワは、1925年にパリで開かれた装飾美術・近代産業国際博覧会(アールデコ博)で「ルーベ・トゥールコワン・テキスタイル製造館」の設計を担当して知り合った近代建築の旗手マレ・ステヴァンスに、自邸の設計を依頼したのです。
外装を地元の黄土色の化粧レンガで包んだ、鉄筋コンクリート造りの«近代建築の城»は、あまりにデカいし、高級ホテルのような主人夫妻の寝室、各種の色大理石の床などは、ビンボー症の身としては正直なところ、まるで住みたいとは思わない。でも、30年代らしい率直なデザインと、住む人が快適な生活を送ることに徹底して向き合った建築家の意思と配慮が、建物の隅々まで感じられる。カヴロワ邸はたしかに«究極の住宅»の代表例のひとつです。