エピキュリアン大杉 栄、狂乱のパリでかく遊べり。
魔子よ、魔子
パパは今
世界に名高い
パリの牢やラ・サンテに。
だが、魔子よ、
心配するな
西洋料理の御馳走たべて
チョコレートなめて
葉巻きスパスパ
ソファの上に。
1922年11月、フランス無政府主義同盟の代表アンドレ・コロメルから東京の大杉のもとに書状が届いた。ベルリンで開催される国際無政府主義者大会へ招待するという。大杉は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)として、方々から旅費を工面し、中国人名義の偽の旅券を手にすると、早くも12月の半ばに神戸から出航した。そして、翌2月から6月にかけ、監視の目の厳しさを避けてリヨンに潜伏した期間もあったが、〈狂乱の時代〉と呼ばれた当時のパリで水を得た魚のように享楽の限りをつくした。
『牢屋の歌』という一文で、下のようなことを書いている。
生前の大杉の写真が何枚か残っている。<杉よ!眼の男よ!>と謳われたその顔は、目が大きく、彫りもふかく、今でも〈イケメン〉で十分に通用しそうだ。もちろん同時代の女性たちにモテたし、大の女好きでもあった。21歳で結婚してからも女性遍歴を重ね、1916年には三角関係のもつれから、女性に喉を刺され、九死に一生を得ている。
彼の『日本脱出記』も多くのページを女性の描写に割いている。2月11日、マルセイユに上陸するなり、船の中で知り合ったマダムNというモスクワ大学出身の女性とホテルの部屋をともにする。女工らのストに出くわせば、彼女たちが昼休みに精をを出しているあやしいバイトに好奇心をそそられる。フランスでもこの男の体からは強烈なフェロモンが発せられていたのだろう。カフェに入れば、「ふと五つ六つ向うのテーブルにいる若い綺麗な女が、僕の顔を見ながらニコニコしているのに気がついた。これはまた、日本ではとても見られないような、本当の西洋人の目のさめるような女だ。(中略)僕は少々赤くなって、すましてほかの方を向いた。すると、そこにもやはり、一人の若い綺麗な女が、僕の顔を見てニコニコしているのにぶつかった。少し癪にさわったので、こんどは度胸をすえて、こっちでもその女の顔をじっと見つめてやった」
とりわけ大杉を夢中にさせたのが、ピガールのヴィクトール・マッセ通りのキャバレー、バル・タバラン(Bal Tabarain)の踊り子ドリイだ。ムーランルージュとともに名を馳せたパリの夜の殿堂の高嶺の花ですらモノにしてしまう。名前は記されていないが、当時の踊り子たちのプロマイドが残っている。ドリーもおそらく彼女たちのように、豊満な美女だったのかもしれない。
一方、夜の街での成功にくらべると、本業のアナキズム運動のほうはあまりパッとしない。肝心の国際大会に出席するために申請していたドイツのビザが下りなかった。そんな5月1日、彼はサン・ドニの労働会館で開かれたメーデーの集会に出かけていく。その席上、突然コロメルから演説を頼まれた大杉は、即座にメモを用意し、じつに40分近くにわたって日本の労働者のおかれた状況について熱弁をふるった。密航者にしては、あまりにも目立ちすぎた。その場で検挙されると、会場にいた十数名の女性たちが彼の釈放を求めて警察署まで押し寄せた。
フランスの官憲は彼の正体を見破っていた。しかし、大杉のエピキュリアンぶりは14区のラ・サンテ刑務所に送られても萎えなかった。
囚人食では足りないと、外から食事を取り寄せた。「十品ばかりいろいろならべてある。僕はその中から四品だけ選んで、なお白葡萄酒のごく上等な奴をと贅沢を言った」。もともと下戸だったのだが、無聊(ぶりょう)を慰めてちびりちびりとやりながらいるうちに味を覚え、国外追放処分を受けて釈放された日には、「警視庁の外事課で追放の手続きを待っている半日の間に、このアン・ドミを百人近くの刑事どもの真ん中に首をさらされながら、一本きれいにあけてしまった」、という。
だが、放蕩が過ぎて帰りの旅費に事欠いたのだろう、最後は領事に5千フランを借りて6月3日の朝、マルセイユから帰国の途についた。惨殺されるわずか3カ月前のことだ。死が待つ祖国に赴いた楽天家は、このパリの初夏の
空に何を見たのだろう。我々も、ひがみ根性はドブに捨てて、ここはひとつ大杉に倣って、夏のパリで乱れてみようではないか!