オランド大統領の支持率が、左翼陣営からも「右寄り路線」と批判され、30%前後で低迷しているなか、「正真正銘の社会主義者(リベラシオン紙)」として尊敬されていたピエール・モロワが、6月7日、84歳で亡くなった。
1981年ミッテランが大統領に選ばれ、23年ぶりに、共産党大臣も含む左派連合政権が誕生する。モロワはその首相として3年間、定年を60歳に引き下げ、週労働時間を39時間に短縮し、有給休暇を1週間増やして5週間にし、高額所得者に特別税を課し、銀行などを国有化し、地方分権を推進し、死刑を廃止…などと次から次へと社会主義に忠実な改革を行った。ところが1984年に、サヴァリ法と呼ばれたカトリック系の私立学校への補助を大幅に削減する法案を国民議会にかける。ところが、パリでその法案に反対する100万人を超す巨大なデモがあり、おそれをなしたミッテラン大統領は、同法案を撤回。「私たちの政治的理想に反することだ」とモロワは直ちに辞任する。父親が公立の小学校の教師だったモロワにとって、宗教に左右されない教育という理念は譲れないことだったに違いない。
モロワは1928年、ノール県のカティニで生まれる。晩年、政界で成功する秘けつはと聞かれる度に「愛されること」と答えるのが常だったが、子供時代から親からの愛情にはこと欠かなかったという。18歳からパリ郊外で青年社会党員として鍛えられる。1972年にリール市長に選ばれ、翌年には国民議会議員に。それからは社会党の左寄り理論家として押しも押されもしない存在となっていく。1981年の大統領選挙で、ミッテランに共産党との連合の必要性を説いたのもモロワ。リール市長の職は2001年まで務めるが、貧困にあえいでいた町にTGVを通すことに成功し、市の中心部を改造し、文化都市への変貌に力を入れるなど、大任を果たす。当時の助役の一人は「首相時代は、土曜の夜には必ず帰ってきて、朝まで今何がリールに起こっているかを細かく聞き出し、そして日曜は朝市に出かけて、『赤ちゃんは元気?』などと声をかけていました」と語る。
1992年から2011年まではノール県選出の上院議員として活躍していたが、2002年の大統領選挙で社会党のリオネル・ジョスパン候補に珍しく怒りを爆発させた。「リオネル君、君の公約には〈ouvrier 労働者〉というコトバが見当たらないけれど、いつから口にしてはいけない卑語になったんだい」(真)