2008年の民間仲裁裁判で4億ユーロを得たはずのベルナール・タピだが、6月7日パリジャン紙でのインタビューで、「4億ユーロというのは現実とはまったく関係のない数字だ。税金その他を引いて、私に残っているのは、1億ユーロを下回る。(…)返金することは不可能だ」と開き直った。不景気、失業に苦しむ庶民には、まだまだ金持ちじゃないか、と腹立たしいし、それに、これまでのタピの過去から判断して、どこまで本当か、と疑われてもしょうがないところもある。
レーサー、歌手、実業家、政治家、サッカーチームのオーナー、テレビ司会者、作家、コメディアンなど多くの顔を持つタピの生き方を追ってみよう。
1943年1月、パリ20区、労働者の家庭に生まれる。高校卒業後兵役について、野心と粘り強さで社会階層の違いを乗り越えることができると確信したという。まず目指したのはポップ歌手、続いて フォーミュラ3のレーサー。これは事故で重傷を負って断念。70年代後半からは、破産寸前の中小企業を次々に買収しては再建し、高く売却する手腕で知られるようになる。たとえば電池会社のワンダーは、1984年に名目だけの1フランで買収し、1988年に4億7千万フランで売却している。10年間近くでタピは、フランスの金持ちのトップクラスに入る。そして1990年には、純益が減る一方のアディダスを買い取り、ロゴを一新するなどのマーケティングで、1993年に黒字経営になることに貢献。そんなタピは、庶民や若い経営者にとってのシンボルとなったが、一部からは「詐欺師」と批判された。
こうして得た財産を、タピはスポーツに注ぎ込む。最初は国際的自転車ロードレースのツール・ド・フランスをターゲットにし、1985年にはベルナール・イノー選手、1986年にはグレッグ・レモン選手で総合優勝を果たす。同年、サッカークラブ、オランピック・ド・マルセイユ(OM)を買収し、巨額の資金で有力選手を獲得し、1993年には欧州チャンピオンズリーグで優勝。スポーツ界への進出と時を同じくして、政界にも野心を示して社会党党員となり、1988年にはブーシュ・デュ・ローヌ県から立候補して国民議会議員に、そして1992年には左派内閣の都市担当大臣に就任と、トントン拍子の出世ぶりだった。ところが1993年5月に行われたOMとヴァランシエンヌとの試合で、八百長行為を指図していたことが発覚する。OM会長職から無期限で退任させられ、1995年の裁判で懲役2年、3年間の議員資格剥奪という判決を受ける。
その後は、政界、スポーツ界から身を引き、俳優として舞台に立ったりしていたが、2012年12月、エルサングループのニース・マタン紙やプロヴァンス紙を買収した。特に後者はマルセイユの日刊紙であるだけに、2014年の市議選に出て市長の座を狙っているのでは、と話題を呼んだ。タピはそのつもりはないと発言しているが、どうなることか。(真)