「モンテ・クリスト城」では、ひんぱんに宴が…。
1844年、新聞に連載された『モンテ・クリスト伯』の大成功を受けて、デュマはパリ近郊イヴリーヌ県のマルリーに土地を購入し、豪邸の建築にとりかかった。
ルネサンス様式を模した本館は、ファサードはもちろん側面や背面も、植物や天使、楽器などの彫刻で優雅に飾られている。正面玄関扉の上で訪れる人を出迎えるのは、きりりとしたご本人の顔をかたどった彫刻。さらに視線を上に向けると、「Je m’aime qui m’aime」(私を愛する者を私は愛する)の文字が刻まれている。さらに城の両脇を固める小塔についた丸屋根の中央をよく見ると、アレクサンドル・デュマのイニシャル「A」と「D」の飾り文字が。
そんなふうに自分が大好きなデュマだったけれど、他人のことも大きな心で愛し、その寛大さは伝説になっている。この邸宅が完成した1847年に行われた新築祝いには、600人ほどの客が招待され、パリの有名レストランから取り寄せられたご馳走に舌鼓を打ったという。こういった特別な日以外にも、デュマ邸ではひんぱんに宴がひらかれ、落ちぶれたアーティストなどが、ありがたがって集まっては飲み食いをしていった。城主は、やってくる者を拒否することなく、常におおらかな心持ちで迎えたそう。猟を得意とするデュマは、自らがしとめたジビエを料理し、客に供することもあった。
本館を入って正面の部屋は、そうやって料理に情熱を傾けたデュマの面影をたどることができる。中でも存在感があるのは、ショーケースに入った『料理大辞典』のオリジナル本。「A」、「D」の赤い文字が、真っ黒で分厚い表紙に浮かび上がり、その重厚感は圧倒的。この本は、晩年、デュマが、ブルターニュの漁村ロスコフで、楽しみながら執筆した最後の著作だ。アルファベット順に、料理や食材、調理法についての、実際的でユーモアに満ちた記述がずらりと続いている。また、歴史に残る料理本についてのコメントも散りばめられ、この作家の食に対する知識と探究心に感心させられる。希代のグルメといわれるのもよく分かる。ゾウやカンガルー、アオウミガメなどの珍味が登場するのも、いかにもデュマらしい。
らせん階段をあがると、直筆原稿や、著作の全タイトルがまとめて表記された一覧表が展示されていて、そのひとつひとつを見ていくことで、デュマの一生をたどれるつくりになっている。そして、見逃せないのは、奥にひかえる豪しゃなアラビア風のサロン。これは、旅行先からわざわざデュマが連れ帰ったチュニジア人の職人によるものだそう。白を基調とした細かい模様の入り組む壁や天井。色とりどりのステンドグラスがほどこされた窓。エキゾチックな魅力を放つこの空間は、館の他の部分とは似ても似つかない。「~様式」と呼べない、オリジナリティにあふれるこんな内装は、悪くいえば、アンバランス。よくいえば、デュマの自由な発想を感じさせる、立派な作品といったところ。
本館の向かい、200mほどのところにあるのが「イフ城」と名づけられた別館。小ぢんまりとしたこの館が、デュマの仕事場だったという。石の壁には『モンテ・クリスト伯』はじめ、著作のタイトルが刻まれているのが、またこの作家らしくてほほえましい。ナルシストもここまで徹底していると気持ちがよい。
城を後にする前に、庭園を散歩するのもお忘れなく。デュマ自身「地上の楽園」と呼んだという英国式のこの庭には、人口池や洞窟が配置されている。今ではその影はないけれど、当時、この池には1000尾ほどのコイや150尾のマスが泳いでいたという。
こんな夢のような豪邸の生活は、あえなく終わりを告げることになる。劇場経営の破綻や、宴会での大盤振る舞いなどにより、デュマは多額の借金を抱えこむことになってしまった。引っ越し祝いからわずか2年後の1849年にはこの豪邸の売却を迫られ、その後、ベルギーへ亡命することになる。
『料理大事典』のオリジナル本。
別館「イフ城」の壁に 彼の代表作の題名が刻まれている。
「イフ城」にあるデュマの仕事場。