1978年にインド北西部パンジャブ州で生まれたラジンダー・シンさんは、7年前、家族を助けるためにヨーロッパに仕事を探しにいく決心をする。パリ18区のいとこのアパートに住まわせてもらい、ピザ配達やチラシ配りで収入を得、インドの母に月150ユーロの仕送りをしていたという。4年前に、地下鉄で同じ時間、同じ車両に乗る機会が多かったモーリシャス島の女性と親しくなり、昨年パリ北郊外のドランシーで一緒に住み始めた。ここまではフランスに移民して来た一人の普通の男だった。
9月29日20時45分頃、仕事を終えたバブさんは地下鉄7号線に乗り込む。そして、スタリングラード駅で乗ってきた若い男が、座っている一女性に迫り、携帯を盗もうとしている現場に立ち会う。敬けんなヒンズー教徒で日頃から人のためになることをいとわないバブさんは、彼女の助けに割って入る。男はバブさんに食ってかかり、二人はクリメ駅に降りてもみ合いになる。そのもみ合いの最中にバブさんはホームから線路に落ち感電死した…というのが同乗していたバブさんの友人たちの証言だ。
この「地下鉄のヒーロー」の死がパリジャン紙に報道されるやいなや、同紙のサイトに彼の勇気を称えるメッセージが数百と寄せられる。白バラの花束を持って事故現場のホームにやってくる人もいる。フレデリック・ミッテラン文化相も彼の近親者に電話を入れて、いろいろ支援したい旨を伝える。ヒンズー教にのっとって遺体をインドに移送して火葬にするために必要な5000ユーロは、RATP(パリ市交通公団 )基金が肩代わりすることを申し出た。
精神科医サミュエル・ルパスティエさんは、どうしてこの事件がこれだけの反響を呼んだのかを分析する。「この女性を助けようとすれば誰でも線路に落ちる可能性があったが,彼一人だけが実際に行動した。そこで私たちは彼と自分を同一視しようとする。というのも彼が私たちの一番優れた部分を代表しているから。もう一つの要素は彼が移民の一人であるということだ。ふだん移民たちは偏見の対象になることが多い。そのうちの一人が人のために自分の身を捧げたということが、私たちに罪悪感を抱かせ、どうしたら償えることができるのかと考える」
地下鉄の監視カメラが事件の現場を撮影していたこともあって、10月4日、容疑者と思われる22歳の男が逮捕された。ところが彼の供述によると、女性の携帯をとろうとしたというのはうその証言だ。ホームでもみ合ったのは事実だが、最初に殴ってきたのはバブさんで、突き放そうとしたらホームに落ちた、という。そういえば,被害にあったという女性はまだ名乗り出ていない。「地下鉄のヒーロー」の死はけんかが原因の事故死だったのか? パリジャン紙の報道は急ぎ過ぎだったのか?(真)