今年現役を引退する職人、フィリップ・ロウさん
「ハンマーをまた打ち返す。シンプルな作業だけれど、これこそが仕事、生きることの美しさ…」
楽器製作、修理。コンサートという華やかな表舞台を支える彼ら職人たちは、先代から使われているという無数の道具に壁一面に囲まれた仕事場で、朝は8時から長い時は22時まで働くという。「集中力がほとばしると、そのリズムに乗った手が止まらないのです」。今年現役を引退する職人、フィリップ・ロウさんは、19歳からこの仕事に就いている。「科学者になりたかったんですよ。しかしそのための試験に落ちたのです。そこで学歴はバカロレア止まり。父は再試験のために一年間学費を払うと言ってくれたけれど、僕は断った」。そして自然と父親と同じ、楽器製造、修理の道を進むようになる。1969年からパリ11区の職人街、ジャン=ピエール・タンボー通りにところ狭しと軒を連ねるアトリエの一つで働いた。1984年には独立。生まれ育った町、パリ北西郊外のメゾン・ラフィットにアトリエを構える。毎日楽器と向かい合い、もちろん演奏家たちとのコミュニケーションを重ねながら、よりよい技術で対応できる努力をいとわず、突き進んできた。
「金属は生きている、そして作り手の反応を感じとっているんだよ。ハンマーを打ちながら形づくるとき、金属は僕に反応を返すんだ、音でね。そうすると僕は、また打ち返す。シンプルな作業だけれど、これこそが仕事、イコール生きることの美しさである、と僕は思っている」
製造、修理する楽器の用途によって、その音楽や時代背景も知る必要がある。古いタイプのトロンボーンは、例えばバロック音楽。そして演奏家の要望もある。「ミュージシャンからやり直しの注文が来ないように、渡す前には何度も何度も確認、試演します。これが職人のプライドというものですよ」
しかし、先代からのこの仕事にも時代の潮流に乗ることの厳しさが突きつけられている。「昔は、アトリエでの楽器製造は盛んで、時には200キロの金属板を購入して作っていた、今はたった5キロだよ」。工場生産が幅をきかせ、今日のライバルはヨーロッパではなく、アジア。例えば200ユーロを下回る価格のサックス。これは職人一人が作り上げる価格の10何分の一。資本主義経済のどこかで、大事な何かが忘れ去られている。大量工場生産された、それら楽器たちから音への愛が感じられるのだろうか。「買っては捨て、とにかく安いものを…という考え方が主流になり、そのためにモノの価値はどこかに置き去り、と感じてしまうよ」
しかし、弟子を志願しドアをたたく者が絶えなかった、ともいう。職人の仕事で大切なことは、己の技術の向上はもちろんだが、もう一つ後継者の育成だ。「弟子たちは僕らを越えていかなけらばならない。僕が独立する時、父が『お前はもう私より上手くなってしまった』と言ったようにね」。目下フィリップさんのアトリエを切り盛りするのは、日本人の弟子、三宅直也さん。「ナオヤの飛躍には目を見張る。その速度といい、正確さ。すごい職人になるよ」。職人として、技術の向上、自己革命として自らに課して半世紀弱。2002年には、フランス政府から、Maître d’Art (日本の人間国宝に当たる)の称号を得た。
http://www.philippe-rault.com/
金属板切断のために、板に線をひくチョーク。
厚みがあり、指は黒く、そして温かい手、美しい音を生み出す、一番の道具です。
熱や金属の切り口から 手を守るごわごわの手袋。
頑丈そうなペンチ。
凹み直し専用ハンマー。ボールといわれる重りを管内で 止めたあとで外側から叩いて凹んだ部分を元に戻らせます。
真鍮(しんちゅう)の板を切るハサミ。
凹み直し用ボール付き芯金(しんがね)。 金管楽器修理用の芯金には さまざまな形がある。