19世紀自然主義小説家のエミール・ゾラというと、何度となく映画化された『ナナ』や『ジェルミナル』を思いだす人が多い。また、フランス大統領に向けて書かれた手紙「私は弾劾する!」を知っている人は、政治的な発言をする正義感のある作家として認識しているよう。
パリの暗黒面を執拗に描く筆致にはどこかとっつきにくいものを感じることもあるが、食いしん坊だったらきっと誰もが夢中になってしまうのが『パリの胃袋』だ。今はパリの郊外へ移動してしまった中央市場を舞台に繰り広げられるこの小説を読むと、当時の活気のある市場の様子がありありと目に浮かんでくる。1ページ以上も続くチーズ屋の描写からは行間から匂いが漂ってきそうだし、野菜や果物の並ぶ陳列台の美しさに感動する画家の狂喜や、市場の人々の間で交わされる活気に満ちたやりとりなどは真実味にあふれている。
そんな、生き生きした描写にきっと大いに貢献しているのが、子供のころに中央市場近くに住んでいたアレクサンドリーヌ。後のゾラ夫人である。アレクサンドリーヌにとって、中央市場はまたとない遊び場。荷車やかごの間をかけまわり、商人たちをからかったり押しのけたり、果物や花をくすねるようなお転婆だったという。
後に、アレクサンドリーヌがゾラの友人である画家のセザンヌのモデルをしたことがきっかけで、ふたりは知り合い、結婚することに。ゾラ家では毎週木曜日に友人や弟子たちを招いて賑やかな夕食会を開いており、アレクサンドリーヌの料理の腕は、すぐにゾラの友人たち皆の知るところになった。アレクサンドリーヌの得意料理のひとつは、ブイヤベース。南仏出身のゾラから教わったこの料理は、プロヴァンス地方の友人たちも驚く見事な味だったという。(さ)