ジョルジオ・デ・キリコ(1888-1978)に対する考えを一変させる前代未聞の回顧展である。通常デ・キリコの回顧展は1930年までの作品で終わっているが、ここではあえて全生涯を網羅した。 デ・キリコは1910年代に、形而上的作風でアンドレ・ブルトンを初めとするシュルレアリストたちから絶賛された。人気のない建物と影、遠近法のズレ、建物と人物のアンバランスが不安感を増大させる。やっぱりデ・キリコっていいなぁ。ところが、それは最初のうちだけ。あれよあれよという間に、悪夢ではないかと目を疑う作品のオンパレードになり、驚愕しっぱなしで出口にたどり着く。これぞシュルレアリスム的体験! 皆がイメージするデ・キリコは、1918年までだ。それ以降、「あの」作風を止め、イタリア・ルネサンス絵画の模写、神話を素材にした古典的作風の作品、ヌードの自画像、さらには1910年代の自作のコピーと、めまぐるしく変わり、1918年までの作品の熱狂的愛好者たちから、「こんなデ・キリコは見たくない」と酷評された。筆者だってここまで見たくなかったが、芸術家の軌跡という観点では面白い展覧会だ。社会的な評価は20代が絶頂だったデ・キリコは、その後なにを考えて90歳まで生きたのだろう?「未来の芸術家とは、毎日何かを捨てていって、毎日より純粋に、より無垢になる人のことだ」というが、作品を見ると、言っていることとの隔たりが大きすぎる。彼の心理分析は一筋縄ではいかない。 デ・キリコの生涯は、若いころに当たり役を演じて、一生そのイメージから抜け出せられない俳優に似ている。本人はまったく違う役柄でもう一度スターダムに上ろうとするが、周りが許さない。 それを意識してか、40年代には、昔の自作のコピーを描いている。けれども、かつての陰鬱な空の色は蘇っていない。思いつめたように走っていた汽車は、オモチャの汽車のように軽い。作品から発散されるエネルギーは比べものにならない。 回顧展と銘打つなら、いいとこ取りではなく、このように全生涯分の作品を見せるべきだ。ファンにとってデ・キリコが落ちた偶像になっても、人間とは何かを考える上で見る価値がある。(羽) パリ市近代美術館 : 11 av. Président Wilson 16e |
©ADAGP, Paris 2009. |