前回、バルザックは前菜として牡蠣を100個平らげたというエピソードを紹介したが、その牡蠣とはベルギーのオステンデ産だった。作家自身が好んだだけでなく、オステンデ産の牡蠣は『幻滅』の主人公、リュシアン・ド・リュバンプレの好物でもあったよう。失恋の傷を癒すべくパリの高級レストラン〈Véry〉に駆け込んだリュシアンは「パリの快楽に入門するため、絶望を慰めるような夕食を注文した。ボルドーのワイン一本、オステンデの牡蠣、魚、ヤマウズラ、マカロニ、果物、『コレニ勝ル喜ビナシ』だった」(野崎歓訳)。もっとも田舎から出てきたばかりのリュシアンのこと、勘定の段になってその金額のあまりの高さにがく然として「パリの快楽」のわなを知ることになる。また、『「絶対」の追求』の中でクラース家が催す宴会の際にも、オステンデ産の牡蠣は、スコットランドから取り寄せた大雷鳥などと一緒に誇らしげにテーブルを飾っている。ベルギー産のこの牡蠣は小ぶりで濃厚な味わい。当時のような知名度はなくなってしまったが、今でも養殖されている。
ちなみに作品が書かれている19世紀にパリで消費されていた牡蠣は60万ダースというから驚き。当時パリの人口は10万人だったので、パリジャン一人につき、年間6ダースほどの牡蠣を平らげていた計算になる。もちろんすべてのパリジャンが裕福なわけではないので、それを考えると一人当たりの消費量は推して知るべし。時代は少しさかのぼるが、美食評論家の先駆けであるブリア・サヴァランも、派手な饗宴になると必ず前菜として牡蠣が供されたことを述懐している。一グロス、つまり144個も食べる会食者もざらにいたそうだ。(さ)